村上春樹、波と少年の話

作家の岡本綺堂は、怖い話を得意とします。そんな短編作品を集めたものに『青蛙堂鬼談(せいあどう きだん)』があります。

青蛙堂の主人が主催する会に、怪談好きの人々が参加し、一人つずつ自慢の鬼談や奇談を披露する形式を採ります。

本コーナーの前回分で紹介した『西瓜』も、その形式に則って書かれた短編です。

時代が大きく移っても似たような楽しみ方が残るようで、村上春樹の短編でも、話を皆に披露したり、皆の話を聴くのを楽しみにする人々が集まり、ある人が話す話として語られる作品があります。

短編集『レキシントンの幽霊』にある『七番目の男』がそんな一作になります。本作は、1996年『文藝春秋』2月号で発表されています。

「七番」は、集まった仲間に自分の話を披露する順番を指し、部屋に集まった仲間が輪になって話を聴く中、その人の最後の話を始めます。

50代半ばに見える男は、自分が10歳の9月に体験した実話を話し始めます。

男が少年時代に過ごしたのは、海辺の小さな町です。彼の父は開業医をしており、不自由のない暮らしぶりでした。

その頃、彼には実兄よりも親しく付き合う友人がいました。名前をKとイニシアルで呼ぶその少年は、男より1歳下でした。そのKを次のように紹介しています。

Kは瘦せて色白で、まるで女の子のようなきれいな顔立ちをした子供でした。しかし言葉に障害があって、うまく口をきくことができませんでした。知らない人が見たら、あるいは知能に障害があるように見えたかもしれません。また体も弱く、そのせいで学校でも家に帰ってきて遊ぶときにも、私が保護者的な立場に立つようになりました。

村上春樹. レキシントンの幽霊 (文春文庫) (Kindle の位置No.1365-1368). 文藝春秋. Kindle 版.

同じような設定は、『レキシントンの幽霊』の最後に収録される『めくらやなぎと、眠る女』にも登場します。

この場合は、主人公の”僕”がいて、11歳年下のいとことの組合せです。いとこは14歳で、”僕”より20センチぐらい背が低いとされています。

いとこは、小学校に入ってすぐの頃、野球のボールが右耳のあたりにぶつかる事故が起こり、そのせいで、右の耳がほとんど聴こえない障害を持ちます。

それに加えて、健常なはずの左耳まで聴こえずらくなることがあるらしく、そうなると、学業にも支障が出ます。

いとこに対する感覚は保護者のそれに近いものでしょうから、本作のKの設定に近いものを感じます。

短編集の「あとがき」にありますが、1983年に書いた『めくらやなぎと眠る女』1995年に手を入れ、短い話にし、最初の作品と区別するため、『めくらやなぎと、眠る女』として『文学界』で発表したそうです。

七番目の男が10歳の年の9月、男が住む地方を大型台風が襲います。ラジオが伝えることには、ここ10年ほどでは最も大きな台風だそうです。

少年は家族と台風の襲来に耐えますが、しばらくすると急に静かになります。父がいうことには、台風の目に入ったのだろうということで、しばらくは静かな状態が続いたのち、また雨風が強まるだろうと教えてくれます。

家の中に閉じこもっていた少年は、外を散歩してきてもいいかと父に訊き、「少しでも風が吹き始めたらすぐに家に戻る」ことを約束し、外へ出ていきます。

海岸の方を目指して歩いていると、Kが家の中から少年を見つけ、白い犬を連れて出てきます。ふたりは、少し前まで大荒れだったのが嘘のように静かな海岸でしばし楽しむつもりです。

Kは純粋な人間で、何かに注目すると、他のものが目に入らなくなる傾向を持つようです。今は、大波に乗って遠くから運ばれてきたのであろうゴミの中に何かを見つけたのか、少年から10メートルほど離れたところで砂浜にかがみ、熱中しています。

台風の目から抜けるのは少年の想像より遥かに速く、海岸に出て5分もしないうちに、目の前に嵐の大波が近づいていました。

子供ながらに危機が迫っていることを感じた少年は、Kに「もう行くぞ」と声を掛けますが、自分で考えたほど大きな声ではなかったのか、Kは少年の呼びかけと、波の接近に気がつきません。

そうこうするうちに、二人を飲み込むような大きな、大きな波が沖からもの凄いスピードで押し寄せてきます。

ここからは作家の本領が要求される描写です。

男は堤防に駆け上がり、間一髪で難を逃れます。砂浜に残ったKは犬と共に波に飲み込まれ、姿を消します。

呆然と立ち尽くす少年の前に、沖から次の大波が不気味な音を立てて押し寄せてきます。堤防にぶつかった海水は大きく跳ね上がり、ビル3階ぐらいの鎌首を作ります。

このあと、男はあるものを目撃します。男の人生を変えるそれは、一体何でしょうか?

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