人は、思いもかけないところで思わぬ人との縁が結ばれたりします。今読んでいる本に、そんな縁を感じさせる個所が出てきますので、書いておきます。
今読んでいるのは、横溝正史の『金田一耕助のモノローグ』です。電子書籍版で、AmazonのKindle Unlimitedというサービスを利用して読んでいます。
このサービスは、月額980円で該当する電子書籍を追加料金なしで読めます。このサービスが、2カ月間99円で利用できるキャンペーンがあり、利用し始めて1カ月になります。
同じサービスで読んだ横溝の『真説 金田一耕助 』については、本コーナーの前々回投稿分で取り上げています。
横溝が書いた探偵小説は、松本清張が書いたような社会派推理小説に活躍の座を譲り、日陰の存在が長く続きました。それが、横溝が晩年に差し掛かった時期に、思いもかけない横溝ブームが起こりました。
そのブームのさなかに書かれた随筆を集めたものが『新説 金田一耕助』です。
今読んでいる『金田一耕助のモノローグ』は、この書名からはイメージしにくい(?)かもしれませんが、横溝が岡山に疎開した当時のことを事細かに書く随筆です。
『新説 金田一耕助』について書いたときにも書きましたが、第二次世界大戦の末期、日本が終戦を迎える年の1945年4月、義姉の世話を受けて、横溝は家族で岡山へ疎開しています。
疎開先は、岡山県吉備郡岡田村字桜(現在の倉敷市真備町岡田)という、当時は農村地帯のど真ん中であったそうです。
被差別部落の問題(部落問題)があるため、今は「部落」という表現を使いにくくなくなりましたが、昔は普通に使われていました。横溝も、自分が疎開した「桜」地区を、懐かしさも込めて「桜部落」と書いています。
義姉が当初用意した疎開先が、大阪の被災者に占拠されたとかで塞がり、急遽探したのが桜部落の家であったようです。
家は豪華な構えの農家であったようですが、人が住まなくなって長いこと経つのか、家全体が傾(かし)いだ状態です。襖も障子もなく、畳も古く、張り替えなければならない状態です。
そうはいっても戦時中であるため、修繕の目途が立ちません。ところが、義姉はやり手といいますか、建具や畳を闇市で手に入れてくれます。
また、徴兵を免れた若い大工に頼み、1カ月程度で、まずは人が住める程度に修繕してくれます。
43歳目前の1945年4月末から、横溝は妻や三人の子供たち(途中、長男はと東京の学校へ進学するため、疎開先を離れます)と共に、3年5カ月に及ぶ疎開先での生活が始まります。
その当時の苦労や、本格的に始めた探偵小説の執筆などについて、メモ書きや日記があればそれを紹介しながら、当時を思い起こすように書いています。
桜部落に住む住民や、周辺に暮らす人、疎開する家を訪ねる若者らについて書き、横溝が当時をどんな思いで過ごし、それがのちの創作にどのようにつながっていったかがわかる貴重な記録となっています。
細かい話は、本書を読むことで確認していただくとしまして、本書の終盤、思いもかけない人が登場しますので、それについて書きます。
1945年に日本の敗戦で戦争が終わりますが、多くの国民は貧困に苦しみながらも、戦争による身近な恐怖がなくなり、開放的な気分になったようです。
横溝は戦争反対の考えを持っていたと書いています。しかし、それを口に出すようなことはできません。しかし、戦局が悪化し、どうにもならない事態に見舞われることも想定していたのか、戦争が終わるまで、青酸カリ(シアン化カリウム)を隠し持って過ごしたそうです。
戦争が終わり、横溝が疎開していた桜部落周辺も、戦地へ行っていた若者が続々と帰ってくるなど、活気に溢れたそうです。人々の活気が生んだ現象か、村々では素人が芝居を演じ、村人たちに披露することが流行ったそうです。
当然のように、横溝は芝居の台本を依頼され、涙なしでは見られないような母子ものなどをいくつか書き、好評を博したことを書いています。
横溝が疎開していた岡田村でも芝居をやろうということになり、横溝に台本の話が来ます。
横溝には五郎と兄がいましたが、その兄は新劇の役者を目指したりしたため、一緒に劇を見るようなこともしたそうです。兄は自分の夢を叶えられぬまま若くして亡くなります。
その亡き兄の妻が義姉になるのでしょう。横溝の兄が亡くなったあと、再婚したようです。
兄の劇好きの影響を受け、芝居の素養も知らぬ間に自分のものにしていたのであろう横溝は、素人芝居の台本をすらすらと書き上げますが、問題になるのは、大悲劇の女主人公を演じてくれる素人女性がいるかどうかです。
その”大役”は、横溝が住んでいた家の隣、といっても、田舎の隣ですから、離れた家になりましょうが、昌(ま)あちゃんという若い娘さんが務めてくれます。当時二十歳前後でした。
昌あちゃんの父親は、神在小学校で校長をする中山暦一という人で、昌あちゃんの家は、桜部落では素封家的な家でした。昌あちゃんは中山家の長女です。
素人であった昌あちゃんは、立派にその役を演じ、見物客の涙を絞ったのでした。
その素人芝居があった1947年の秋、家の近くを散歩していた横溝が、表の道で近所の顔見知り数人に出会います。彼らは農作業の手を休め、中山家の様子をしきりに窺っています。
野次馬根性を出した横溝が「なにかあったの?」と訊くと、昌あちゃんがお見合いをしているというのです。横溝も彼らと一緒に、中山家の方を見ていると、お見合いが済んだようで、家の中から見合い相手の男が出てきます。
その個所を、本書から抜き出させてもらいましょう。
野次馬根性の強い私もその仲間に加わってようすを見ていると、まもなく小柄で、色白の、度の強そうな眼鏡をかけた復員服の青年が、三、四人のひとといっしょに中山家から出てき たかと思うと、お母さんらしいひとを自転車のうしろに乗っけてさっと引き揚げていった。
昌あちゃんはまもなくその青年のところへお嫁にいったが、すると間もなく一(※疎開先で知り合った加藤一〔かとう・ひとし〕)さんが家へやってきて、「昌あちゃんのお婿さん、年に 四、五回碁を打てば食べていける男じちゅう話じゃけえど、どういうんでしょうな」
「へへえ、そんなら賭け碁ですんのんかいな」
横溝 正史. 金田一耕助のモノローグ 「金田一耕助」シリーズ (角川文庫) (Kindle の位置No.1121-1126). 角川書店. Kindle 版.
この話の2、3日あと、また一さんから新しい情報が入ります。昌あちゃんの結婚相手は、囲碁ではなく将棋の棋士であることがわかります。
名前を聞いて、横溝さんはびっくり仰天です。というのも、一さんが「たしか大山とかいう」と答えたからです。
将棋の好きな人が「大山」と聞けば、大山康晴を思い浮かべます。そして実際に、まだ七段だったのちの大山康晴十五世名人が昌あちゃんこと中山昌子の見合い相手であり、結婚した相手なのでした。
ネットの事典ウィキペディアで大山永世名人を調べますと、出身地が当時の岡山県浅口郡河内町西阿知(現在の倉敷市)ですから、横溝が疎開した土地とも近かった(?)でしょうか。
ちなみに、横溝は神戸の生まれですが、父は岡山県浅口郡船穂町柳井原の生まれですから、大山永世名人と同じ浅口群の出身です。横溝の母親も岡山の出身で、横溝には岡山県人の血が濃厚に流れていたといってもよさそうに思えなくもありません。
横溝は、東京へ引き上げた1953年、時事新報に頼まれて書いた短文「まあちゃんのお婿さん」に、次のようなことを書いたそうです。
まあちゃんは私の弟子みたいなものだから、その縁につながる大山九段も私の弟子みたいなもんだ
横溝 正史. 金田一耕助のモノローグ 「金田一耕助」シリーズ (角川文庫) (Kindle の位置No.1140-1141). 角川書店. Kindle 版.
この短文を大山永世名人夫妻が見つけ、早速横溝の家を訪問してきたそうです。以来、大山家と親しく付き合っていると書いています。
大山康晴永世名人について書かれたウィキペディアには、名人の妻の名も、横溝との関係もありません。ですので、関心のある方には何らかの参考になるかもしれない、と本書にあったエピソードを紹介しました。
横溝と妻、子供は、1948年7月31日、疎開先で世話になった人大勢に見送られ、惜しまれながら東京へ目指しました。
「縁は異なもの味なもの」とはよくいったものです。