昭和の時代、探偵小説の代表的な作家のひとりだった横溝正史の大ブームがありました。
角川書店から横溝作品が文庫本になって出ると売れに売れ、横溝本人が尻込みしても、文庫本化は加速度的に進み、40作品ぐらいが文庫本になりました。
私はそのブームの前まで横溝正史を知らずにいましたが、手に取った本が面白く、発売された文庫本のほとんどを読んだはずです。
このブームが角川書店の角川春樹氏を勢いづかせ、角川春樹事務所を立ち上げ、映画の製作にまで乗り出しました。同事務所の第一回作品が、横溝の『犬神家の一族』です。
主人公の金田一耕助を石坂浩二が演じ、監督は市川崑です。私も映画館のスクリーンで本作を見ています。
このように、立て続けの文庫本と映画の大ヒットで一躍時の人となった横溝ですが、ブームになるまでの15年程度(?)は、忘れられた存在でした。
第二次世界大戦後、のちにブームで文庫本になる作品を連発し、人気作家となった横溝ですが、その後、もう探偵ものは古臭いと烙印を押され、人々の意識から遠のいていきます。
旧世代の作風に結果的に烙印を押したのは松本清張です。清張はそれまでの探偵ものを否定するように、社会派推理小説という分野を確立します。
清張の作品が多くの国民に受け入れられて国民作家といわれるようになるのと入れ替わり、横溝は表舞台から去らざるを得なくなります。
長く雌伏の時代を生き抜いた横溝に再びスポットライトがあたり、人生のいたずらのように、当人が戸惑うほどの大ブームが引き起こされます。
このブームの真っただ中であった1976年9月第1週の日曜日、毎日新聞で横溝による『新説 金田一耕助』という随筆のコーナーが設けられます。
毎日新聞から横溝にこの話があったときは、7回だけという話だったのが、好評だったからか、結局翌年の8月最終週の日曜日まで51回続くコーナーになります。
この随筆集をまとめた『真説 金田一耕助 「金田一耕助」シリーズ 』(角川文庫)をAmazonの電子書籍Kindle版で読みました。
私はちょうど1カ月前、月額980円で該当する電子書籍が読み放題になるAmazonのサービス、Kindle Unlimitedの利用を始めました。2カ月間99円で利用できるキャンペーンがあったからです。
この格安のサービスを利用し、該当する本作を読んだことになります。
他に、次の本も利用に選択しましたので、順に読んでいくことにします。
・金田一耕助のモノローグ 「金田一耕助」シリーズ (角川文庫)
・双生児は囁く (角川文庫) 横溝 正史
・喘ぎ泣く死美人 (角川文庫) 横溝 正史
横溝は、一度は世間から忘れられた作家になっていたのが、突如強烈なライトをあてられ、表舞台に引っ張り出されます。そのてんやわんやの最中に、当人がどのようなことを感じながら生きていたのかがわかる随筆で、興味深く読むことができます。
横溝は、探偵ものの作家である自分を卑下する考えを持っていたのがわかります。また、赤面恐怖症(※横溝は「赤面小心症」と書いています)や乗り物恐怖症があるといい、人前に出ることを嫌う性格であったようです。
その一方でお調子者の一面も持っておられたようで、相反する気持ちで、心が浮き沈みしながら、あの大ブームの中を生きていきます。
横溝は神戸の出身ですが、第二次世界大戦の終戦の年から3年ほど、岡山に疎開していますが、その頃のことも随筆に残しています。
そのあたりについては、読み始めたばかりの随筆集『金田一耕助のモノローグ 「金田一耕助」シリーズ』に書かれていることも加えて書いていきます。
戦時中、横溝は妻と3人の子供と共に、東京の吉祥寺に住んでいます。終戦の年の1945年当時、吉祥寺周辺はまだ開発が進んでおらず、空き地が少なくなかったようです。
そんなこともあって、疎開をせずに済むだろう、と終戦の年の3月頃まで考え、そこで暮らしていました。
ところが、3月10日に東京大空襲があり、危機意識が一気に高まります。それに加えて義姉の勧めもあり、4月から岡山での疎開生活が始まります。
『金田一耕助のモノローグ 「金田一耕助」シリーズ』には、その時のことが詳しく書かれています。
疎開先へ向かう途中、神戸の住吉に住んでいた姉夫婦の家に立ち寄り、そこで三泊しています。
姉が結婚した相手は溝口良吉といい、仕事一本で生きている男です。
溝口は歯車を作る工場で年季小僧として仕事を覚え、そののち独立し、自分の会社を持つようになります。その仕事が大きく成長したのですから、立身出世の人物です。
終戦の年の3月末、横溝一家が訪ねたときも、千坪の敷地に建つ豪邸で生活していたそうです。地続きに千坪の土地が別にあり、長男が戦争から戻った暁には、嫁をもらって隣に住まわせる計画であったのです。
ところが、長男はガダルカナル島で戦死してしまったのでした。
また、溝口は女房運が悪く、横溝の姉も、先妻が亡くなったために後妻として入ったのです。ところが、姉も戦時中、自分のために作ってもらったという茶室を付き合いのある人30人ほどにお披露目したあと、心労も祟ったのか、脳出血を起こし、亡くなっています。
その後、三番目の妻を持ったそうですが、その妻にも死なれているそうです。
溝口は90歳で亡くなっているようですが、土地を手放し、お金も出入りのものにくれてやるなどしたため、財産を残さなかったようです。
これだけ成功した人であればネットに痕跡が残っているかもしれない、と調べてみると、住友重機械ギヤボックス株式会社という会社が見つかりました。
この会社の前身の大阪製鎖所を起こしたのが溝口良吉であろうと確信しました。
横溝が疎開したのは、現在の岡山県倉敷市真備町です。当時は、岡山県吉備郡岡田村と呼ばれていました。
真備町といえば、2年前の6月末、西日本豪雨(平成30年7月豪雨)で河川が氾濫し、大規模な水害が発生したことが記憶に新しいです。
横溝一家が岡山に疎開していた終戦から2年目の秋か翌年の春、土地の新聞社の主催で、県警の本部長と対談する機会がありました。
その対談の中で、『八つ墓村』の創作につながる話を聞いたことを、『新説 金田一耕助』の中で綴っています。
『八つ墓村』は、1977年、松竹が渥美清を金田一耕助役に起用した映画を公開しています。その公開初日、東京の東銀座(東銀座駅)にあった松竹セントラル(1999年2月11日閉館)で、見ました。
記憶が薄れていますが、もしかしたら、上映が始まる前に、監督の野村芳太郎やスタッフや、主演の渥美清ほか、共演の萩原健一、小川真由美、山崎努らの舞台挨拶があった(?)かもしれません。
この作品の素になった事件については、知っている人が多いかもしれません。私は原作を読み、映画も公開初日に見たりしていますが、素の事件には興味を持たず、今回の投稿前に調べるまで知りませんでした。
素になった事件は、第二次世界大戦前の1938年5月21日未明に、現在の岡山県津山市加茂町行重で起きた「津山事件」です。
岡山県苫田群西加茂村大字行重字貝尾という山深い小さな集落で起きた事件ですが、2時間足らずで、住民28人が即死し、2人が12時間後までに死ぬという大量殺人事件が起きています。犯人の都井睦雄(21)は事件後自殺しています。
横溝は県警本部長からこの事件の話を聞き、驚愕するわけですが、エピソードには続きがあります。
百貨店名は書かれていませんが、その事件を記録した写真が展示され、それを会場で見た、と次のように書いています。
ところが百貨店の「防犯展覧会」の会場では、それらの現場写真 がほとんど網羅してあった。いずれも貧しい農家であった。そこに銃殺、あるいは斬殺された血みどろの男女の死体の写真が、麗々しく陳列してあるのだから、眼を覆いたくなるような展覧会であった。当時はカラー写真はなく、いずれもモノクロだったが、それにしてもよくもあんな展覧会が許可されたものだと思う。やはり戦後の混乱した世相が、ああいう酸鼻をきわめた写真の公開に踏み切らせたのであろう。
横溝 正史. 真説 金田一耕助 「金田一耕助」シリーズ (角川文庫) (Kindle の位置No.1672-1676). 角川書店. Kindle 版.
横溝はこの事件に構想を得、『八つ墓村』を書いたことになります。本作品で、田治見要蔵が32人殺しをします。映画『八つ墓村』では、山崎努がその役を演じています。
横溝は、ミステリーの女王アガサ・クリスティのように、80歳まで作品を書きたいと随筆に書いていますが、1981年12月28日、79歳で亡くなりました。
横溝の寿命を知った上で当時の随筆を読みますと、その日その日の喜びや嘆きを、あと〇年後にはしなくてよいことが読者にはわかり、切ない気分になります。
横溝は人生の最晩年に最高の気分を味わえ、人生を生き切った満足感に包まれてこの世を去ることができたでしょうか。