新年早々、実につまらないものを見てしまいました。つまらないものをつまらないと書くので、これを読まれた方にはつまらない思いをさせることになります。
それでも、そんな、つまらないものがあったことを記録として残すために書きます。
ここまで「つまらない」を五回使いました。そのつまらないものは、今月3日に放送されたドラマです。
新聞のテレビ欄でその放送を知り、原作が松本清張(1909~1992)であることを知り、まったく期待せず、録画しておきました。
録画したのは、テレビ朝日が開局65周年を記念して制作した『顔』です。
題名を聞き、以前、NHKで放送したそのドラマを見て、その出来の悪さに驚き、本コーナーで取り上げたことを思い出しました。
録画したドラマは、原作を読んだあとに再生させてみました。松本の『顔』は、1956年に、清張として初めての推理小説短編集に収録された作品で、本作が短編集の表題となっています。
『顔』の主人公は、俳優として成功したい願望を持つ、若い劇団員の井野良吉です。舞台は戦後間もない頃です。
良吉には、ふとしたことから関係ができたミヤ子という女がいました。良吉はミヤ子に愛情を感じておらず、関係を断ちたいと考えています。
しかし、ミヤ子にはその気がなく、どこまでも良吉から離れないつもりです。ミヤ子は良吉の子を腹に宿し、結婚を迫ります。
ここまで書いたことは、詳しく描写されていません。
本作が特徴的なのは、良吉が書く日記形式であることです。日付はありません。はじめに断りがあり、続けて書くこともあれば、日が開くこともあるためとして、「_日」とだけ書かれています。
このように、良吉の一人称で話が進むのです。
テレビ朝日のドラマは、若い女を主人公にしています。舞台も現代の東京です。それなのになぜか、煤けたような映像です。これは、ネットの動画共有サイトYouTubeで、映像好きな人がするシネマティック表現を取り入れたのでしょう。
しかし、現代の話を描くのに、どうして映像を汚らしくする必要があったのか理解に苦しみます。
清張の『顔』の一番の読みどころは良吉の心境です。
ミヤ子を邪魔に感じた良吉は、ふたりのことを誰も知らない山陰へ連れて行き、誰もいない山中で絞め殺します。
私はこれまで清張作品の多くを読んできました。清張が書く小説には殺人事件が欠かせません。清張作品を読まれたことがない人には意外かもしれませんが、清張は、殺害の様子はほとんど書きません。
本作も、ミヤ子を絞め殺したことを良吉が日記に書いているだけです。
それがテレビ朝日のドラマは、ご丁寧に、殺害の様子を映像にしています。テレビ番組というのは、誰が見てもわかりやすいように作るのを使命と感じているのでしょう。
自分がひとりの人間を殺したことがわかれば、警察に捕まります。
良吉には強い気掛かりがありました。自分たちを知る人がひとりもいないはずの山陰本線の車内で、ミヤ子が、たまたま乗り合わせた石岡という男に声を掛けてしまうのです。
良吉は、その後殺害されて発見されたミヤ子と一緒にいるところを石岡に見られたことを、9年経ったあとも、強く強く恐れているのです。
社会に埋もれて生きるのであれば、一般大衆のひとりである自分を、石岡が思い出すこともないでしょう。しかし、良吉は俳優として売れ始め、ついには、主役を演じる話が持ち上がります。
映画館のスクリーンに大写しされる自分の顔を見たら、石岡は、ミヤ子と一緒にいた自分を必ず思い出すに違いないと恐れがいよいよ強まります。
このあたりのことが、テレビ朝日のドラマにはまったく反映されていません。ドラマでは、後藤久美子(1974~)が演じる人権派の弁護士が、石岡の役割です。
女主人公の井野が、付き合っていた恋人を殺すため、山歩きに誘い出します。そこで、たまたま、娘と来ていた女弁護士に遭遇し、自分の顔を見られたと恐れる設定です。
しかし、この設定は弱いです。山登りに来ていたのは井野や弁護士母娘だけではありません。ほかにも、休憩場所には何人もおり、他の人に顔を見られた可能性もあります。
清張の『顔』では、良吉は石岡を殺さなければならないと考え、石岡に手紙を書いて、京都へ誘い出そうとします。
そこから、清張は工夫して、良吉の視点のほかに、石岡の側から見た視点も用意しています。双方で同じことを見て、それぞれがどんな風に感じているかを描きます。
ドラマの方は、井野が恐れているはずの女弁護士の家を訪問し、弁護士の娘の相談役になったりします。
そんな描き方をするのであれば、清張の『顔』をドラマにする意味がありません。良吉が、自分の顔が石岡に知られることを徹底的に恐れる心情を描いた作品だからです。
挙句の果てには、弁護士母娘と屋外で昼食をとったりするシーンがあります。馬鹿々々しくて見るのをやめようと思いましたが、我慢して、最後まで見ました。
原作には、石岡の生活ぶりはほとんど描いていません。結婚して子供も生まれますが、その事実を簡単に書くだけです。もちろん、良吉とその家族が触れあうことはありません。
ドラマは、いったい何を描きたかったのでしょう。
とってつけたように、悪さをするYouTuberらしきネット配信者を登場させ、その悪党に、井野と女弁護士が協力して、軽い復讐をします。
井野と女弁護士が仲良しになるなんてあり得ません。
清張の『顔』では、良吉は石岡をとにかく恐れ、この世から消し去ろうとするのですから。
ドラマのラストもいただけませんね。
清張の『顔』は、良吉の最大の不安を一度は解き、そのあと、破局を匂わす場面で終わっています。その先をくどくどと書くような無様なことはしていません。
その無様を、テレビ朝日ドラマ『顔』でしています。
開局65周年だか何だか知りませんが、こんなゴミのようなドラマを作っても意味がないです。原作者の清張は、草葉の陰で泣いています。
『顔』をどうしてもドラマにしたいのであれば、時代背景は少し変えてもいいですが、徹底して、良吉の恐怖心を一人称で描くことです。
その結果、実験的なドラマになってもいいでしょう。
映像は凝ることはありません。むしろ、無機質なビデオチックな映像が向いています。
ヘンな演出はせず、良吉の目線で淡々と描くことです。あと、殺害場面は省いてください。それがあったことを見る人にわからせればいいです。
テレビ朝日は、二夜続けて清張作品を原作とするドラマを放送しています。二夜目の『ガラスの城』も一応は録画してあります。
一作目の『顔』でそのレベルの低さはわかりました。それを知った上で『ガラスの城』(1962~1963)を見るべきか、迷っています。見たら見たで、結局、二時間程度を無駄に過ごすであろうことが目に見えるからです。
もしも見たら、また、こんなつまらないドラマを見ました、と本コーナーで取り上げることになるでしょう。