アルフレッド・ヒッチコック監督(1899~1980)は、原作となる小説をもとに作品を作っています。私はもとになった原作を読んだことがありませんが、原作に劣らないような作品に仕上げているでしょう。
『北北西に進路を取れ』(1959)には原作となる小説はないですね。脚本を書いたアーネスト・レーマン(1915~ 2005)のオリジナルストーリーになりましょうか。洒落た台詞が印象的です。
多くの場合、映像化しなければならない制約を持つ映画やドラマは、文字だけで書かれた小説を超える作品にするのは難しいように思われます。
芥川龍之介(1892~1927)の小説に『河童』(1927)があります。本作は芥川が自殺した年に書かれています。
実に奇妙な世界を描いています。登場する人間は主人公ただひとりで、あとは河童の世界で、人間とほとんど変わらないか、人間よりも進んだ暮らしをするさまざまな河童たちです。
主人公は、休日に(だったかな?)ひとりで上高地を訪れ、そこで、ひょんなことから河童の世界へ迷い込んでしまうのです。
この芥川の作品を原作として映画化やドラマするのは困難でしょう。これまで、本作を映画にしたという話は聞きません。あるいは、私が知らないだけで、それが実現されているのかもしれませんが。
今であれば、コンピュータグラフィックスの技術を用いることで、河童を映像化することはできるでしょう。しかし、それを映像で見せられても、芥川が描いた文字による表現を超えるのは困難に思われます。
十日ほど前の本コーナーで、英国の作家、アーサー・コナン・ドイル(1859~1930)の『シャーロック・ホームズの冒険』の一話を原作としたドラマ『青い紅玉』について書きました。
クリスマスに食べるために買い求めた鵞鳥の腹の中から、盗難品の宝石が現れ、それがどうして、鵞鳥の腹の中に入ることになったのかをホームズが推理する話です。
この英国ドラマの原作を、Amazonの電子書籍版で読みました。原作の題は、『青い柘榴石』でした。
宝石の青い柘榴石が見つかる鵞鳥の部位を、原作の翻訳では「餌袋」としています。
また、その鵞鳥と帽子を通りで拾い、ホームズに届けた男の職業が、ドラマを見ているときはハッキリしませんでした。私は夜勤が明けた警察官なのか、と思って見ています。
原作ではその男の職業を「使丁」と訳し、「コミッショネア」とフリガナを振っています。私が不勉強なせいか、初めて知った職業です。
原作を訳した本には、「使丁」に次のような注釈をつけています。
退役軍人の組織である使丁組合のメンバーで、制服姿でドアマン、メッセンジャー、ポーターなど、さまざまな仕事を便利屋的にこなす。
その当時のロンドンには、退役軍人による「使丁組合」というのがあり、人々に奉仕するようなことを買って出る人がいた(?)ということのようです。
小説でも映画でも、どこから始めるかは重要です。よく取り上げられる川端康成(1899~1972)の『雪国』(1937)にしても、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」で始まることに意味があったのでしょう。
それをもしも、その前に長々と何かを説明的に書き、そのあとにあの書き出しの文章が出てきたのでは、すべてが違った印象になっていたに違いなく、評価も異なるものになった可能性があります。
この指摘は、宮本輝(1947~)が始めて書いた小説を、宮本のペンネームの名付け親となる在野の先人に見てもらったときの話にもつながります。
宮本は、おそらく自信満々で書いた自作をその人に見てもらいますが、その人は、宮本が熱心に書いたであろう冒頭部分をあっさりけずり、「削ったあとから書き出せたら、君は天才だ」といわれた話が有名です。
宮本はそれに腹を立て、自分の原稿を持って家に戻ったといいます。そのあと、その人の指摘が正しいことに気づき、その人のもとに戻ります。
もしも戻らず、自分のオリジナルの原稿だけをどこまでも信じていたら、のちの宮本輝は生まれなかった(?)かもしれません。
こうした話を思い出して書くと、どうしても、村上春樹(1949~)の作品に共通する「欠点」のようなものが頭にちらつきます。そのことは、本コーナーで何度か書いたのでここでは繰り返しませんが、村上がもしも、宮本が師事したような人に出会い、その指摘を受け入れる素直さが村上にもあったら、今とは違った作風になっていたでしょう。
ホームズの話に戻ると、原作の『青い柘榴石』は、出来事が終わったところから始まります。一方のドラマ『青い紅玉』は、小説では、そんな出来事があったと文章で済ますことができることを、丹念に描いています。
小説に書かれている部分からは、ドラマは忠実に映像化した印象です。
青い柘榴石の所有者の伯爵夫人。その人に仕える使用人やメイドの女。伯爵夫人が滞在したホテルに修理に来た男。鵞鳥を街角に落としたまま去った男。それを拾った使丁。
ドラマはそれらを演じる役者を選び、台詞を与えて演技をさせています。本作には登場しない、修理人の妻や子供たち、修理人を厳しく取り調べるブラッドストリート警部も、役者に演じさせています。
ドイルは、そうした出来事があったことを文章で読者に示すだけです。このあたりに、文字で表現する小説の自由さがあります。頭に浮かんだことを文章にするだけで、省略することも、細かく描写することも、自在にできてしまいます。
昨今は、YouTuberに代表されるような映像表現が盛んになっています。それでも、文字による表現の優位性は揺るぎません。
映像制作にはお金がかかります。常に、機材の動向を気にかけ、新機材が登場すると、大枚をはたいてそれを手に入れたりします。その一方で、文字による表現を選ぶ者は、金をかけず、思いついたことを文章にするだけです。
阿刀田高(1935~)がショートショートを書く上での心得のようなものを一冊の本にまとめたものを読みました。その中で阿刀田は、ショートショートにおいては、美しい女を登場させたければ、「美しい女」と書くだけでいい、というように書いていました。
映像で「美しい女」を残すのは骨が折れます。
「美しい女」を見つけることから始めなければなりません。また、その「美し女」を「美しく」見せる工夫も必要になります。苦労して映像化した「美しい女」が見る人すべてに「美しい」と見える保証がありません。
映像とは、手間がかかる上に不合理です。文字であれば、同じことが四文字で完璧に済むというものを。
ドイルの『青い柘榴石』を含む『シャーロック・ホームズ』の短編集を、追加料金なしで読めるKindle Unlimitedのサービス利用期間が終了してしまいました。
その短編集のあと6編ほどはまだ読んでいません。続きを読もうと思えば、Kindle Unlimitedを有料(1カ月980円)で利用するか、その短編集を購入するかしかありません。
有料書籍を読むうえでは、文字で表現された世界を楽しむのにもお金はかかります。しかし、映像表現のそれに比べれば、微々たるものといえましょう。
Amazonのサイト内に私のアカウントページのひとつ「お客様のKindle Unlimited」を確認すると、利用できる期間が過ぎたことを示すように、「重要なメッセージ 現在、お客様は Kindle Unlimited を利用していません。こちらをクリックして、ぜひご登録ください。」の文章だけが表示されます。
それでも、期間が切れるときに利用していた電子書籍は、閉じない限り、継続利用できるものでしょうか。
書籍を開いたままの『シャーロック・ホームズの冒険』の短編集が、今も読める状態にあります。あとでも繰り返し読みたいので、このまま、この短編集を購入してしまうことも考えています。