若い世代を中心にテレビ離れがいわれています。
私は若い世代は昔に終わったからか、未だにテレビを見ることをしています。しかし、私が見るテレビ番組は、昔に作られた番組ばかりです。
本コーナーで取り上げる映画にしても、今上映されているような作品ではなく、昔に作られた作品ばかりです。
テレビ局が制作した番組にしても、作られたばかりのような番組はほとんど見ることがありません。こちらも昔に作られた番組を好んで見ます。
そんな昔に作られた番組を見ましたので、それについて書くことをしてみます。
それは「NHK特集」というドキュメンタリー番組で、その回のタイトルは「井伏鱒二の世界 『荻窪風土記』から」です。これが放送されたのは今週月曜日(8日)で、録画したのを昨日見ました。
これをNHKが製作したのは、ちょうど40年前の1983年です。この年は、今から思えば日本の転換点の年にあたります。翌年に天皇陛下が崩御され、年号が平成に替わっています。
昭和は64年まであったとされていますが、昭和64年は年が明けた7日までの七日間です。
私事になりますが、1月7日は私の姉の誕生日です。39年前のその日、姉は娘(私にとっては姪)とふたりで出かけており、出かけた先で昭和が終わったことを知ることになります。
漫画の神様といわれた手塚治虫(1928~1989)の人生は、彼が天才であったがゆえか、個人の人生が時代とは無関係であるはずなのに、奇妙にリンクし、昭和が終わるのに合わせて手塚も人生を終えています。
そんな年に放送された番組であることを知った上で見ると、感慨深いものがあります。
番組では、井伏鱒二(1898~1993)の二十年来の愛読者だというNHKのディレクターが、井伏に近づき、ビデオカメラに収めています。
井伏は広島県の生まれですが、早稲田大学に入学するのを機に、東京に移り住んでいます。その井伏が終の棲家としたのが荻窪です。
井伏が住み始めた頃の荻窪は、まだ開発が進んでおらず、荻窪駅に降りると、井伏のほかには降りる乗客がいないこともあった、というようなことも伝えられています。
その荻窪に、井伏は昭和2年から住み始め、おそらくは亡くなるまでその家に住み続けた(?)のでしょう。
その井伏が荻窪の街を書いた『荻窪風土記』を土台にして、井伏の考えや思いを引き出す内容になっています。
井伏の作品は、学校の授業で『山椒魚』(1929)の一部を読んだぐらいの知識しか私にはありません。番組を見たことで、少しは井伏のことを知らなければ、と番組で取り上げられた『荻窪風土記』と、直木賞を受賞した『ジョン万次郎漂流記』(1938)が収録された本を電子書籍版のサンプルで試し読みました。
このあと、それぞれの本を購入し、読むことにします。
昔から荻窪に住んできた人の話では、品川の岸壁を離れる汽船の汽笛が、荻窪まで聞こえたそうです。それが、関東大震災(1923)のあとはなぜか聞こえなくなったということです。
井伏が住んだ家の筋向いには、将棋の大山康晴(1923~1992)の家があったそうです。井伏の家は天沼にあった教会から200メートルほど離れたところにあり、住み始めた頃は、教会で歌われる讃美歌が聞こえたそうです。
それだけ、当時は、辺りにあまり家が建っていなかったのでしょう。
番組の「仕込み」なのかわかりませんが、作家の開高健(1930~1989)が井伏宅を訪問する様子が撮影されています。開高が井伏宅を入る様子から始まりますので、突然の来訪ではないことがわかります。
井伏宅には、ちょうど、新潮社の編集者が来ており、取材をするNHKのディレクターを入れた4人で、酒を酌み交わしながら、談笑をします。
その途中、興味深い問いかけが、井伏の後輩を自認する(?)開高から井伏にありました。その部分を抜き出して動画にしてみましたので、よかったらご覧ください。
おふたりが話していることを理解していただくため、字幕を表示させています。
アルコールが回り、互いが良い心持になったところで、開高がざっくばらんに、ご自分の「悩み」を井伏に「相談」しています。
これがどこまで本気なのか、あるいは、テレビカメラが回っていることで、「サービス」のつもりで井伏に問いかけたのかどうかはわかりません。
開高はいきなり、自分の年が52であるといい、井伏が同じ年のときはどんな心持であったか問うています。
1983年は開高が53歳になる年ですが、開高の誕生日は12月で、撮影されたときはまだ52歳です。その開高が、自分は52になるが、「どうしたらいいでしょうか?」と井伏に救いの手を求めています。
問いかけられた井伏は明治31年2月の生まれですから、これが撮影されたときには85歳になられていたことがわかります。
開高は、これから先どうしたらいいかわからなくなり、「夜更けに迷う」といっています。それを井伏がどの程度の感覚で受け取ったわかりませんが、「いろはにほへとでもいいから、何かを書けばいい」と「アドバイス」します。
それに対して開高は、「机に向かう気が起こらないのです」と答えます。原稿を書くよりほか生きる術がない自分は、どうすればいいのか、と。
開高が井伏宅を訪問する前、井伏が体調を崩すことがあったようです。はじめに応対した井伏夫人に、井伏の体調を窺うこともしています。
この番組を見たあとに調べてわかりましたが、開高が井伏より先に亡くなっています。
開高は割と早死にで、この番組の撮影があった5年後に、58歳で亡くなられています。その一方、開高に健康を気遣われた井伏は、番組が撮影された10年後の1993年に95歳で亡くなられています。
番組の冒頭、まだタイトルが出る前、井伏宅を訪れたNHKのディレクターに、井伏が酒はどのくらい飲むのかと訊いています。
そんなことを訊くぐらいですから、井伏は酒が好きだったのでしょう。その井伏によると、日本酒には洋酒にはない(?)夾雑物が含まれているから、注意した方がいい、というようなことを述べています。
しかし、夾雑物があることが実は日本酒の魅力なのであり、それが、飲む人をうっとりした気分にさせもすれば、興奮を呼ばせるとも話しています。
井伏は日本酒を愛しながら、自分の健康を考えて、晩年はそれを控えた(?)のかもしれません。それで長生きできたことになりましょうか。