映画監督・黒澤明(1910~1998)の作品に『羅生門』(1950)があります。
この作品の原作が、タイトルが同じことから、芥川龍之介(1892~1927)の『羅生門』(1915)だと考える人がいるでしょう。私も昨日まで、恥ずかしながら、そのように考えていました。
しかし、芥川の『羅生門』と黒澤の『羅生門』が別であることをやっと知ることができました。
今は便利になり、電子書籍を使うことで、文豪が残した数々の作品に気軽に接することができます。
私はAmazonのKindleを使っていますが、芥川の378作が収められた『芥川龍之介全集』を格安な価格(200円)で手に入れました。芥川は短編作品を多数残したため、時間が空いたときに、少しずつ読むことをしています。
この全集では、作品が五十音順に収録されています。私ははじめから順に読んでいるため、ら行の『羅生門』は一番最後ぐらいにならないと、読む順番が巡ってきません。
こんな事情もあり、芥川の『羅生門』は読んでいませんでした。
その『羅生門』を昨日、はじめて読みました。
読んだきっかけは、同じKindleで、芥川の400作品を収録した『決定版 芥川龍之介全集 決定版日本文学全集 (文豪e叢書) Kindle版』というのがあるのに気がついたことによってです。
私はAmazonの有料会員になっていますが、今は、追加料金なしで、該当する書籍を何冊でも読めるKindle Unlimitedを無料で利用できる権利を有しています。
このサービスに芥川の全集が該当するため、691円する全集を早速無料で読むことを決めました。
ほかに、江戸川乱歩(1894~1965)と岡本綺堂(1872~1939)、永井荷風(1879~1959)も同じような全集が編まれ、これらも無料で読めるため、Kindleにダウンロードしました。無料期間にこれらをすべて読むのは不可能ですので、いずれ、購入することになるでしょう。
このようなわけで、芥川の決定版全集を早速開くと、こちらは、五十音順ではなく、一番最初に『羅生門』が収録されているのです。それで、芥川の本作をはじめて(学校に通った頃に読んだかもしれませんが、内容は忘れていました)読んだというわけです。
舞台は、平安時代の荒廃した京の都にある、荒れ果てた羅生門です。雨が降り、下人が独りでいるところが描かれるところは、黒澤の『羅生門』と同じです。
しかし、そのあとの展開が映画とはまるで違います。それで、映画の『羅生門』は、話の筋が芥川の『藪の中』(1922)で、『羅生門』は、話を展開していくための装置のように利用された(?)のであろうことに気がつきました。
芥川のほか、乱歩、綺堂、荷風の全集を無料で読む権利を得つつ、村上春樹(1949~)のエッセイ集にも興味を持ち、こちらは有料で購入してしまいました。
『職業としての小説家』(2015)です。
村上の短編小説は読みやすい作品が多いものの、長編小説になると、読みにくく感じる作品が少なくないように、私には感じられます。
村上がエッセイを書くと、これも実に読みやすいです。彼の紀行文も同じです。
というわけで、四人の全集を手に入れ、まずは芥川の『羅生門』を読んだあと、今度は、村上のエッセイ集を読むというようなことをしています。
全部で十二回に分けて書いてあるうちの第2回は、「小説家になった頃」と題して、有名なエピソードを書いています。
同じことを村上は何度も書いており、それを読んで知っている話です。
村上は、プロ野球の球団、ヤクルトスワローズが日本一になった1978年に、スワローズの開幕戦を明治神宮球場の芝生の外野席で観戦しているとき、啓示が天から降って来たように、「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」の考えが村上の頭の中でひらめきます。
村上は、スワローズのトップバッターがデーブ・ヒルトン(1950~2017)で、一打席目に二塁打を打ったことは憶えていますが、スワローズがその試合に勝ったかどうかは、はっきりと記憶していないようです。
カッコの中で「勝ったと記憶しています」とは書いていますが。
村上は試合が終わると、新宿の紀伊國屋書店へ行き、生まれて初めての小説を書くために、原稿用紙とセーラー万年筆(2000円)を買ったことまで憶えています。
以来、その当時していた店の仕事が終わったあと、台所のテーブルで、小説を書き、プロ野球のシーズンが終わりかけた頃に、第一稿を書き上げたそうです。
原稿用紙にして二百枚弱の作品だったそうですが、自分でそれを読み、「やれやれ、これじゃどうしようもないな」とがっかりしたそうです。
そのままであれば、今の村上春樹は誕生せずに終わったでしょう。
それを終わらせなかったのは、村上が、原稿用紙と万年筆で書くことを一度放棄したことです。
次に彼が選んだことも、彼に舞い降りた啓示だったのかもしれません。
彼は、押し入れにしまってあったオリベッティの英文タイプライターを持ち出し、それを使って、自分の小説の出だしを英文で書いてみたそうです。
限られる英単語を使って文章にしていくことで、だんだん、自分なりの文章のリズムのようなものを会得することに成功したようです。
その感覚を英文タイプライターで得た村上は、タイプライターをまた押し入れにしまい、今度は、原稿用紙に万年筆で、自分がタイプライターで書いた英文の小説の書き出しを、日本語に「翻訳」するように、書くことをしたそうです。
村上は、書き上げた、人生で初めての小説『風の歌を聴け』(1979)を、『群像』(1946~)という文芸雑誌のコンクールに応募します。ただ、村上自身は、応募したことは忘れてしまっていたようです。
翌、1979年の春、『群像』の編集部から電話がかかってきたそうです。新人賞の最終選考五編の中に、村上が書いて応募した『風の歌を聴け』が残っている、と。
実感が沸かないまま、村上は妻とふたりで、住んでいた近所を散歩していると、小学校のそばの茂みの陰に、一羽の伝書鳩が座り込んでいたのに気がつきます。
翼を怪我している様子だったので、村上は、近くにある交番に鳩を届けます。
そのあと、またしても、村上に啓示のようなものが舞い降ります。
群像の新人賞をとるだろう。そしてそのまま小説家になって、ある程度の成功を収めるだろう、と。
私はその件(くだり)を読んでいて、ある古い映画を思い出しました。ジェームズ・ステュアート(1908~1997)が主演した『素晴らしき哉、人生!』(1946)という米国映画です。
昨年の12月22日にNHK BSプレミアムで放送されたのを私は録画して、初めて見ました。
本作は、若い夫婦が困難に打ち勝って、最後には成功と幸せを手に入れますが、主人公で、ステュアートが演じたジョージには、まだ翼を持たない「二級天使」がつき、ジョージが子供の頃から成長するまで、天国から見守っていたのです。
ジョージが人生に失望し、クリスマスイブの夜、街を流れる川に身投げして自殺しようとします。すると、それを察知した二級天使が、ジョージより先に川に飛び込み、ジョージに救わせることで、二級天使は彼に生きる意味を教えるのです。
村上にも、おそらくは、天国から彼を見守り続ける天使のようなものがついているのでしょう。
それは、村上に限らず、この世に生を受けたすべての人でも同じことかもしれません。
これもまた、最近、Kindle Unlimitedの無料利用サービスで、私が併読している岸見一郎氏(1956~)が解説する『NHK「100分de名著」ブックス 三木清 人生論ノート 孤独は知性である』に書かれていることですが、人生で成功するとかしないとかとは関係なく、ただ生きていることだけで幸せだ、というようなことを教えられました。
私の場合でいえば、2004年の8月末、自転車で急坂を走る途中で転倒し、頭部を強打して、急性硬膜下血腫を起こしたときがそうです。
緊急の手術を受けて助かりましたが、後遺症はまったくなく、今も健康に過ごしています。
というわけで、私は村上のように、天からの啓示のようなものは感じたことがありませんが、今こうして、生きていることだけを感謝すべきなのかもしれません。
なんてことを考えたりします。
芥川と黒澤の『羅生門』の違いを書くつもりが、別のことをつらつらと書いてしまいました。
今度は、三木清(1897~1945)の『人生論ノート』(1941)を読んで、人生について考えてみるのも悪くない、かもしれませんね。
この調子では、芥川や乱歩、綺堂、荷風の全集を読み終えるのがいつになるかわかりません。
芥川の『藪の中』を読んだら、黒澤の『羅生門』との違いを書いてみることにします。最近読み始めた芥川の全集であれば、前の方にその作品が載っています。読むのが楽しみです。