2008/12/12 修復版『羅生門』鑑賞記

昨日、おとといと関東南部は季節外れの暖かさとなりました。昨日の東京の最高気温は19.3℃です。と何やら本サイト内の天気コーナーのような書き出しになっています。それはともかく、天気が良くて暖かいと、人を活動的な気分にさせます。

出不精な私ではありますが、その好天に誘われるように、出かけました。向かったのは東京・新宿です。その3丁目にある角川シネマ新宿で今日まで上映されている作品を見るためです。

映画『羅生門』のチラシ(表)

この劇場へは初めて行ったため、目的地へ無事にたどり着けるか一抹の不安を感じつつ、最寄り駅の地下鉄・新宿3丁目駅に到着しました。

この駅の地下道は、新宿通りの下をJRの新宿駅までつながっており、地上への出口が多数あります。私は【B2】の出口から地上へ出得ると、明治通りに面したところで、あとは迷うことなく、目的の劇場へ行けました。

劇場のチケット売り場はそのビルの4階にあります。エレベーターに乗り込み、いざ上階へ、と思ったところへ年配のご夫婦が乗り込んできました。

そこで、私は気を利かしたつもりで、扉が閉じなりようにボタンを押しました。すると、扉が速く閉まり、後ろのご婦人が危うく扉に挟まりそうになりました。

私は驚いて、「すみません。大丈夫でしたか?」と声を掛けましたが、何ともなくてよかったです。どうやら、扉を開けておくつもりが、私は閉めるボタンを間違って押してしまっていたようです。

そのご夫婦も私と同じ4階で降りました。目的はどうやら同じで、その劇場で今日まで上映されている『羅生門』(1950)の鑑賞が目的なのでした。黒澤明19101998)が監督した作品で、1951年ヴェネツィア映画祭で最高賞を受賞しています。

監督が黒澤、そして黒澤と橋本忍19182018)の共同脚本、音楽は早坂文雄19141955)、撮影は宮川一夫19081999)と錚々たる面々による作品です。

ただ、小説や音楽と違い、映画は、最終的にフィルムという物質に焼き付けて残すため、長い年月の間には、表現の土台であるフィルムの劣化が免れないという宿命がつきまといます。

『羅生門』でも無縁ではありません。完成から60年近く経ち、フィルムの傷みが進みました。それをこのほど、日本とアメリカが共同でデジタル技術を使った修復を施し、蘇った『羅生門』として公開されたのです。

その修復の過程を11月25日付の産経新聞が記事にして伝えました。

記事によれば、『羅生門』の修復作業は、黒澤監督が没して今年が10年ということで、この作品の版権を持つ角川映画が、昨夏にプロジェクトを立ち上げることで始まったそうです。

修復したフィルムは、東京国立近代美術館・フィルムセンターで46年前から保存してきたフィルムだそうです。

私はフィルムという物質や表現媒体が好きで、普通の個人が唯一扱える8ミリ映画を趣味としました。

8ミリ映画のフィルムは、スチール写真のポジフィルム(リバーサルフィルム)と同じように、撮影によって画像が定着したフィルムを現像し、それがそのまま映写用フィルムとなります。

商業映画のフィルムについての知識を持たない頃は、映画のフィルムも同じような手順で作られると思っていました。が、そんなわけはないですね。それでは、現像されたフィルム一本だけしか残らなくなります。出来上がる作品は撮影に使ったフィルム一本きりになってしまいます。

今でも制作過程を正確に知っているわけではありませんが、商業映画の場合は、撮影用のムービーフィルムは、スチル写真のネガフィルムのようなもので、必要な枚数の写真を焼き増しするように、ネガの原板から、複数の映写用フィルムを焼き付けることになります。

だとするなら、記事に書かれていることに疑問を感じないでもありません。フィルムセンターに所蔵されていたフィルムを使って修復したとあるからです。

もしかしたらですが、作品の原板は保存されていなかった(?)のでしょうか。世界的な賞を受賞した作品ですから、そんなことはないと思うのですが。

ともあれ、日米約40人のスタッフが、計12万コマ以上を1コマ、1コマ確認しながら、傷を取り除いたり、フォーカスの甘いところを修正するという気の遠くなるような作業をしたものと思います。

『羅生門』という作品で重要なポイントを占める豪雨のシーンがあります。それを修復する際は、写っているのが雨粒なのか、それとも傷なのかを確認することなどを確認することもあり、米国製のコンピュータ技術に支えられたとはいえ、非常に手のかかる作業であったようです。

また、音声の修復にしても、日本人にならセミの音とわかるものが、米国人には雑音にしか聞こえないそうで、その点でも日米の連携が欠かせなかった、と記事にはあります。

原作は、芥川龍之介18921927)の『藪の中』1922)という短編小説だそうです。私はこの小説を読んだことはありません。ネットの事典ウィキペディアでその「あらすじ」に目を通すと、黒澤は原作を忠実に映像化している印象です。

作品の冒頭は、豪雨に煙るほとんど朽ちかけた羅生門が映し出されます。その門の下で、ふたりの男が座り込んでいます。あるいは、雨が止むのを待っていただけかもしれませんが、ふたりに近寄ると、ふたりは雨が上がっても立ち上がる気力を欠いているように見えます。

ひとりの男(志村喬19051982〕)は、吐き捨てるように「わからねぇ。まったく、わからねぇ…」といいます。そばにいる僧侶の袈裟をつけた男(千秋実19171999〕)もしゃべる気力を失ったように座っています。

そこへ、別の男(上田吉二郎19041972〕)がやってきます。その男は雨宿りのためにその門の下へやって来たのではなさそうです。壊れ放題の門から無理矢理板を引っぱがし、切れ端を自分のすみかへ持って帰って薪(たきぎ)の足しにでもするつもりのようです。

盗人風情の男は、「わかんねぇ…」としかいわないふたりの男に向かって、「何が『わかんねぇ』なんだ?! 暇つぶしに、その『わかんねぇ』話をあっしに聞かせてくれないか?」(←私の記憶で勝手に脚色しています。だいたいこんな感じと受け取ってください)といい、3日前の出来事が語られ始めます。

この調子で書いていきますと、あらすじをすべて書くことになってしまいそうです。ですので、話を端折(はしょ)って書こうと思いますが、それだとどんな話かよくわからなくなってしまうかもしれません。

どうしても外せない話を書きます。

ある森の中で、ひとりの武士(森雅之19111973〕)が死体で発見されます。その武士は誰に殺されたのか? それとも、武士が自害したのか? 真相は「藪の中」というわけです。

この作品で特徴的なことがふたつ、三つあります。ひとつは登場人物が少ないことです。

豪雨の中の羅生門の下で話をする男が三人。他には、死体となって発見される武士とその妻(京マチ子19242019〕)。

ほかの登場人物といえば、暴れん坊の多襄丸(たじょうまる)(三船敏郎19201997〕)。死んだ武士の霊媒役となる巫女本間文子19112009〕)。多襄丸を知るらしい男(加東大介19111975〕)。合計八人だけです。

映画『羅生門』のチラシ(裏)

また、これも特徴的なことですが、検非違使によって、一人ひとりがその時の状況を取り調べられますが、検非違使は声も、姿さえも、まったく登場しません。

まったく関係がありませんが、私はそれを見ながら、アメリカの映画監督スティーヴン・スピルバーグ1946~)が、無名時代にテレビ映画用に監督した『激突!』1971)という作品で見せた設定を重ね合わせていました。

これは乗用車を運転するひとりの男が、ハイウェイで巨大なタンクローリーを追い越し、そのことがタンクローリーの運転手の神経を逆なでしたことになってしまい、以後、そのタンクローリーにどこまでも追いかけられることになってしまいます。

そのタンクローリーの運転手はどんな人物なのか気になりますが、画面に映るのは運転席の窓から見える腕や、タンクローリーの向こう側を歩く脚の一部だけです。最後まで、その人物の姿は映りませんす。

どんな人間にも、得意・不得意があります。黒澤明の場合は、女優の扱いは不得意である、と聞いたことがあります。もしも、女優の扱いが上手だったり、扱いを好む監督が『羅生門』を作ったなら、まったく異なる味わいを持ったでしょう。

本作品で重要なポイントであるのは、武士の妻が、夫の目の前で、多襄丸に強姦されることです。

女優の扱いに積極的でなかった黒澤は、強姦シーンをフィルムに残すことはしませんでした。宮川一夫のカメラは森の木々に向けられ、木々のざわめきだけで事を描いて終わりです。

仮に、今村昌平19262006)が本作のメガホンをとったなら、あるいは、増村保造19241986)であったら、濃密な強姦シーンが見せられたかもしれません。いや、これは無責任な想像です。

あるいはまた、黒澤監督の向き不向きとは別に、人間の身勝手さが描きたかったことであれば、強姦そのものは、丁寧に描くまでもないことになりそうです。それが起きた事実だけで十分だからです。

多襄丸は己の刀の腕前を誇示したかったのであり、武士の妻は強姦された自分を蔑んだように見た夫が許せなかったのであり、夫である武士は妻を助けられなかった自分を情けなく思ったのでありました。

リアルな武士にこだわる黒澤監督の考え方がもっとも反映されたのは、その一部始終を物陰から見たという志村喬が演じる男の証言です。

不甲斐ない夫と荒々しい風貌が見かけ倒しでしかなかった多襄丸を嘲り、「女という生き物は、狂ったように一途に自分を必要とする男のものになるものだ」(←私の印象で脚色)といい、ふたりに死を賭けた決闘をけしかけます。

それを聞いた男ふたりは決闘を始めますが、映画でよく見る格好のいい立ち回りとは対極のだらしなさです。互いに腰を引いて転げ回るだけです。刀を握る手がブルブルと震え、女も女で、多襄丸が夫の体に刀を突き立てると、腰を抜かして、その場から逃げるように姿を消します。

男も女も格好悪いこと、この上ありません。

しかし、これが武士道などといって讃えられる男の真の姿なのであり、女もその程度の生き物だ、と黒澤がいっているような気がしないでもありません。

以上、見てきたばかりの『羅生門』について、なるべくあらすじに触れずに書いてみました。あいにくなことに、修復された作品の上映は今日までです。いずれまた、本作が修復されたフィルムで上映される機会があれば、会場へ足を運び、ご自分の眼でご覧になってみてください。

【大映4K映画祭/羅生門】特別映像

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