このところ、あることをして過ごすことが多くなっています。それは、前々回の本コーナーで取り上げた音声入力です。
私は、PCもタブレットPCも、Google日本語入力を使っています。PCの入力には、当然のことながら、物理的なキーボードを使います。
一方、タブレットPCにも物理的キーボードを接続して使えるものの、それはそれで一手間かかりますので、仮想のキーボードが基本です。
私は、タブレットPCでは、GoogleのGboardを使っています。それまでの、物理的キーボードのローマ字入力と考え方がまるで違い、はじめは戸惑いました。
それでも、使い続けるうちに、次第に慣れてきました。それでも、それで長文を入力する気に私はなりません。その代わりとして登場してくるのが音声での入力です。
この技術はここ数年で飛躍的に向上している印象です。今回、久しぶりに使ってみて、その進歩ぶりに驚かされました。
前回、このことについて取り上げたときにも書きましたが、弱点はあります。Googleの日本語入力では、文章に必ず登場する「、」と「。」の入力に一手間かかることです。
これについてネットで検索すると、同じGoogleの音声入力でだと思いますが、普通に話すだけで、「、」と「。」が自動で入力されるようになった、という記述がありました。
ただ、私の環境では、そのようなことは起きません。何か、設定の違いがある(?)のでしょうか。
ともあれ、自動で入れてくれないのなら、自分で入れるしかありません。
「とうてん(読点)」と発音すれば「、」、「まる」と発音すれば「。」と入ることはわかりました。それを知ってから、私は「まる」で「。」と入れることにしています。
「、」も「とうてん」で入り、利用しますが、こちらは、私の滑舌の良し悪しで、「、」と入れてくれないことがたびたび起こります。私の場合、多い誤変換は「とうてん」が「トーテム」や「当店」になってしまうことが多いです。
しかし、見方を変えて、変換するプログラムの側からすれば、そのようにしか聴こえない発音を私がしていることになりそうです。
そのように思い当たったことで、ここ数日間、毎日1時間ぐらい、Googleドキュメントを使い、音声入力をすることをしています。
入力するためのテキストには、小説家の村上春樹(1949~)のエッセイ『走ることについて語るときに僕の語ること』(2007)を使用させてもらっています。
エッセイのタイトルを書きましたが、「走ることについて」でも良さそうに私には思えますが、村上は「それでは足りない」と考えたのでしょうか。
本タイトルは、米国の小説家で詩人のレイモンド・カーヴァー(1938~1988)の短編集『愛について語るときに我々の語ること』(1981)に由来するそうです。
ともあれ、それを毎日1時間程度音読し、どれだけ正確に入力できるか試しています。
続けて誤変換されることもあり、そのときはタブレットPCに内蔵されているマイクの性能を疑いました。そのため、手元にあり、使わなかった外部マイクを使ったりもしましたが、結果に大きな違いがなく、結局、私の滑舌の悪さが原因であることを知らされただけでした。
村上は、職業作家として生きていくことを考えたことで、長距離走を始めたそうです。小説家は運動不足がちで、太る体質だった村上は、自分の体重と健康を維持する必要を感じたようです。
東京の神宮球場の近くに住まいがあった頃は、神宮外苑の周回コースを走ったそうです。
その当時、オリンピックでメダルを取ることを目指していた瀬古利彦氏(1956~)らエスビー食品陸上部の長距離ランナーが神宮外苑の周回コースで練習をしていた、と村上は書いています。
村上は彼らと同じコースを走ることで、知らず識らずの間に顔見知り程度にはなります。話をしたことはなくても、互いを認識するぐらいの関係です。
そんな彼らの中にいた金井豊(1959~1990)と谷口伴之(1961~ 1990)について書いています。私の記憶にはありませんでしたが、ふたりとも早稲田大学のOBで、箱根駅伝で良い成績を残したそうです。
同大会で、早稲田は1984年と1985年に連続で優勝しています。このときのメンバーに二人がいたことになるのでしょう。
その当時は、瀬古氏がエスビー食品の監督となり、二人は若き両エースとして将来を期待されていたようです。村上はあとでそれを知りますが、二人は当時、結婚したばかりだったそうです。
その二人が、北海道で夏合宿をしたとき、交通事故で二人共命を落としています。運転免許を取ったばかりの大学生が運転する車で移動中、対向車線にはみ出してトラックと正面衝突し、車は道路下に転落して大破したということです。
私の記憶にほとんどなかったことなどを教えられながら、私は音声入力のトレーニングを積み、それは、私の発声のトレーニングにもなっているように感じています。
多くの人がそうであるように、自分の専門外のことを理解するときは、自分の専門の延長線上で理解に努めることをします。
村上も、長距離を走り、それがマラソンレースに出場するまでになったことと、小説を書く自分の本業とに類似点を見つけ、それを文章にしています。
小説を書く上で、最も必要とされるのが小説を書く才能であるのは疑うまでもありません。しかし、その才能があるだけでは、天才でもない限り、小説、中でも長編小説を長き期間に渡って書き続けることは難しいというようなことを書いています。
そのときに必要となる資質が、集中力と持続力と村上は書き、これらは努力によって、後天的に手に入れられると書いています。
村上は、同じ努力を長距離走で実践し、42.195キロのマラソンレースを、3時間台で走れる体力と自身を自分のものにしたのでしょう。
それに倣い、私も音読で音声入力を毎日続け、入力精度と共に、明瞭に話せるようになることを目指すことにします。
私は持続力だけはあると自分でも考えています。
村上は持続力をトレーニングによって身につけられると書いていますが、私の考えは違います。これこそが生まれ持った自分の素質のように考えるからです。
どんなにトレーニングをしても、みんながみんなマラソンを走れるようになるわけではないです。そもそも、走れるようになれない人は、はじめから長距離走を始めることもしません。
村上がマラソンを走るようになったのも、元からその素質を自分の中に持っていたからではないでしょうか。
ただ、だからといってどんなことも長く続けられるわけではなく、村上も、一般的な日記は続けて書くことができないと本書で書いています。続けられることと、続けられないことが同じ人間の中に同居しているといえそうです。
本サイトは1999年10月17日に開設し、今まで続いています。昨年で21年経ちました。サイトの更新を続ける素質、のようなものが私にはあることになりそうです。命がある限りは目立たず、辛抱強く続けることにします。
音声入力の練習が続けられ、不自由なく文字に変換してもらえるようになると良いです。