事件が発生し、未解決のまま間もなく1年が経つということで、今朝の新聞各紙にはその事件についての捜査状況が書かれています。
この事件は、2000年12月31日(あるいは30日)に世田谷区上祖師谷(現場宅からの最寄り駅は、小田急線・成城学園前駅か京王線・千歳烏山駅で共に徒歩で20分から25分ほどの距離)で起こった「世田谷一家殺害事件」です。
事件のあらましを今日の朝日新聞の記事から転載してみますと以下の通りです。
2000年12月31日午前10時55分ごろ、東京都世田谷区上祖師谷3丁目の宮澤みきおさん宅で、宮澤さん(当時44)と妻泰子さん(同41)、長女にいなちゃん(同8)が刺殺され、長男礼君(同6)が窒息死させられているのが見つかった。犯行時刻は同月30日午後11時半過ぎとみられる。(以下略)
新聞には現場の状況が詳しく書かれていませんが、話によれば現場は血の海と化し、専門の捜査官でも目を背けたくなるほどの凄惨な状況だったようです。

当事件を特徴づける要素の一つは現場に残された遺留品の多さです。
- 特徴的な犯人の指紋(変体紋:弓状や渦巻き状といった通常の分類には含まれない特異な形。選別が容易)
- 足跡
- 血液(A型)
- 帽子
- ジャンパー
- 血のついたトレーナー
- 手袋
- マフラー
- ヒップバッグ(のちに当バッグの中から50ミクロン〔1ミクロンは1千分の1ミリ〕のパウダー状のガラスビーズ5、6粒が見つかる)
- 韓国製のテニスシューズ「スラセンジャー」
私は当事件には関心がなく、発生当時はマスメディアの報道にも熱心に目を通してはいないのですが、こうして遺留品のリストを改めて見返してみますと、その多さには驚かされるものがあります。
ここで、素人の私が疑問に思うのは、果たして真犯人はそれらを現場にわざわざ残して行ったのだろうかということです。普通の感覚でいけば、できるだけ捜査の手がかりにつながりそうな遺留品は残したくないというのが人の心理というものではないでしょうか。
捜査本部は当初から、犯人は犯行後、30日深夜から31日未明には当現場を後にしたと踏んでいたようです。
常識的には、私もそうだと思います。
最低気温が5度前後にまで下がる冬の室内に、電気もつけず居続ける理由はありません。しかも、現場には自分が殺害した死体が4体横たわっているのです。
しかし、ここに気になる事実が浮かび上がってきます。インターネットの接続記録です。
今週発売になった週刊文春に載っている当時の産経新聞の記事によりますと、「(事件が)発覚50分前までネット接続/犯行後31日午前1時過ぎと同日10時頃にもインターネットに接続した記録が複数残っていることが分かった」とあります。
これはどう解釈すればいいのでしょうか。
本サイトからもリンクを張らせてもらっています(※当時)ネットラジオ「ありがとう浜村淳です」の昨日、あるいは一昨日の放送の中で、その“現象”は解明された、と浜村淳さんはおっしゃっていました。
私はその方面のことには詳しくないのですが、浜村さんのお話によりますと、あらかじめお気に入りになっているサイトがある場合、ある一定の間隔で自動にアクセスさせることができる、とのことでした。ちなみに、宮澤さんご自身によって「劇団四季」の公式サイトはお気に入りに登録されていたそうです。
これが事実であれば、そこから犯人に結ぶつくような状況にはならなそうです。
しかし、もしも犯人自身がネットにアクセスしていたのだとすれば、状況は変わってきます。
これは私の勝手な推測なのですが、何の目的があってかわかりませんが、犯人が犯行現場に居続け、しかもネットに悠然とアクセスしていたとしたらどうでしょう。
そこへ、31日午前、思いがけず電話(被害者である泰子さんの実母。隣りに娘家族と住んでいたようです)がかかってきます。その後、不審に思った実母が現場を訪れ、惨状を目撃することになります。
その思いがけない“訪問者”に犯人が慌てふためき、多くの遺留品を現場に放置したまま現場から逃走した、という推測も成り立ちそうです。
第一、シューズをあらかじめ2足用意して犯行に望んだのなら別ですが、そうではなく、犯行後シューズを置いたまま逃走するというのは、いくら慌てたといえども不自然です。犯人はシューズなしで逃走したのでしょうか?
そうした事実をつなぎ合わせていきますと、警察が当初考えていた事件後の様相とは別の展開も描けそう、ではありませんか。
ともあれ、目下のところ事件は捜査中で真相はまだ藪の中ですが、それが一日も早く完全解明され、犯行の動機と事件の顛末を知りたいところではあります。