村上春樹(1949~)のエッセイ集『職業としての小説家』(2015)を、Amazonの電子書籍版で読みました。本書は、2016年に文庫本として出版され、同年に電子書籍版でも出たそうです。
このようなエッセイ集は、多くが雑誌などに連載され、その後、一冊の本にまとめられたりするでしょう。
本書のあとがきで、村上がどのようにエッセイを書いたのかが書かれています。
村上は、自分が小説家として小説を書き続けている状況について、まとめて語っておきたいという考えを元々持ち、仕事の合間に、誰に頼まれたのでもなく、自発的に断片的に書き溜めたそうです。
はっきりとした記憶はないものの、一冊の本として世に出る5年から6年前に書き始めたとありますから、2010年前後になりましょうか。
その後、付き合いのあった翻訳家の柴田元幸氏(1954~)が、“MONKEY”という新感覚の文芸誌を立ち上げたとき、柴田氏に何か書いてくれないかと声をかけられ、ちょうど書き上げた短編作品があったので、それを渡したそうです。
それとは別に、自発的に書いたエッセイがあることを柴田氏に話し、よかったら連載という形で載せてもらえないか、と村上の方から持ちかけ、半分の6章が、2013年から2015年にかけて、雑誌に掲載されたそうです。
前半6章の見出しを書いておきましょうか。
- 第一回 小説家は寛容な人種なのか
- 第二回 小説家になった頃
- 第三回 文学賞について
- 第四回 オリジナリティーについて
- 第五回 さて、何を書けばいいのか?
- 第六回 時間を味方につける 長編小説を書くこと
この6回分はすでに書いてあったため、ただ渡すだけでよく、「格段に楽な仕事だった」と書いています。
本書の後半5章分は、本書のために書き下ろしたものだそうです。では、後半5章も見出しを書いておきます。
- 第七回 どこまでも個人的でフィジカルな営み
- 第八回 学校について
- 第九回 どんな人物を登場させようか?
- 第十回 誰のために書くのか?
- 第十一回 海外へ出ていく、新しいフロンティア
村上は進んで人前に出ることがないそうです。そんな村上が、生前に親交があった河合隼雄氏(1928~2007)について、京都大学の講堂で、千人ほどを前に講演をしています。そのための原稿が12章として最後に掲載されています。
- 第十二回 物語のあるところ 河合隼雄先生の思い出
村上は河合と何度も会って話をしたそうですが、村上が考える「物語」を正確に受け止めてくれたのは河合氏以外にいなかった、と語っています。
そんな河合氏を、村上は「河合さん」とは呼べず、「河合先生」と呼んでいたそうです。講演のための原稿も「河合先生」です。
本書を読んで印象に残ったのは、自分が書いたものに対しての風当たりが強かった、と書いていることです。たとえば、次のように書いています。
繰り返すみたいですが、僕は批評的には、長年にわたってけっこう厳しい立場に置かれ続けてきました。僕の本を出す出版社内でも、僕の書いたものを支持してくれる編集者よりは、どちらかといえば批判的な立場を取る編集者の方が数が多かったみたいです。そんなこんなで、いつも何かしら厳しいことを言われたり、冷ややかな扱いを受けてきました。
村上春樹. 職業としての小説家(新潮文庫) (p.219). 新潮社. Kindle 版.
こうしたことは、何かを表現する人には避けられないことではないでしょうか。たとえば、ひとつの小説があったして、それが万人から、表向き、好評価されても、それはそれで気持ちの悪いものです。
意地悪い想像をしてしまいます。
たとえば、たまたま出会った河合隼雄氏が村上の作品や村上個人に対して、冷ややかな態度をとったら、果たして、ふたりの親交は深まっただろうか、と。
結局のところ、自分の方を向いてくれる人を人は信じたがります。それは村上も同じです。ご本人はそれを認めるかどうかわかりませんが。
私も村上の作品はいくつも読み、そのたびに、本コーナーで取り上げることをしています。褒めることはあまりなく、村上がそれを自分の本分とする長編小説についても、私は好評価してはいません。
私は、あたり障りのないことをいったり書いたりするのは好きではないです。ですから、村上の作品も、感じたままを素直に書きました。こんな私は、村上には受け入れてもらえそうにないですね。
村上がどのように小説を書くのかについては、次回以降、取り上げられたら取り上げることにします。