海外で、日本のように、純文学とそれ以外の大衆小説とに分けられているか知りません。
日本ではそれが分けられ、それぞれを書く小説家自身も、自分は純文学の作家だ、自分は大衆に向けた小説を書く作家だと考えているふしがあります。
また、それぞれを読む読者も、そのような気持ちで作品に接しているのではないでしょうか。
このように分けられた場合、大衆小説よりも純文学のほうが「高尚」に考えられています。しかし、個々の作品を比較すれば、必ずしもそうでないことが少なくないのではありませんか?
私は電子書籍版でだけ本を読むようになりました。私が使う電子書籍端末にある本は読んでしまったので、新たな一冊を入手しました。読みたい本が決まっていないときは、読み慣れた松本清張(1909~1992)の作品で、まだ読んでいない本を探し、それを読むことが多いです。
表題作を含む短編集『共犯者』を見つけ、それに決めて読み始めたところです。全部で十の短編小説が収録されており、その中には、別の短編集で読んだ作品もあります。
その三番目の『愛と空白の共謀』を読み終えたあとに本コーナーの更新を始めました。
清張作品というと殺人事件が付き物と考えるかもしれません。多くの場合はそうですが、本作ではそれが起きません。
本作に描かれるのは、サラリーマンの夫と妻です。夫の勝野俊吾は、電気器具製造会社で営業課長をしています。本作が発表されたのは1958年で、妻の章子(あきこ)は専業主婦です。
ふたりは東京に住んでおり、子供はいません。
俊吾の会社の本社は東京にあり、大阪に支社があります。この会社は、本社と支社で、ひと月ごとに営業会議が開かれており、俊吾は隔月で一週間、大阪に出張することが2年ほど続いています。
夫婦といっても元は他人です。章子が俊吾を出張に送り出したあと一週間は、独身時代に戻ったような気安さで過ごします。
それが突然断ち切られます。今度の出張で大阪に向かった俊吾に急変があり、それを知らせる連絡が章子にあります。今であれば、章子の携帯電話にでも連絡が入るでしょう。
本作が発表されたのが66年も前ですから、それは電報で届けられました。その電報には、俊吾が急病なのですぐ来るように書かれています。
当時は新幹線がなく、飛行機も利用は限られたのでしょう。章子は東京駅へ行き、そこから急行列車の二等車にようやく席を取り、俊吾が宿を取った京都へ急ぎます。
夜に東京を出発した列車が京都に着くのは翌朝の7時半頃です。
そのあとのことは書きません。章子や俊吾のことを読んでいると、大人の男と女のことを清張がよくわかって書いていることに気がつかされます。
比較するのは申し訳ないですが、純文学作家の村上春樹(1949~)が書いた作品を読むと、年齢的には大人の男女が登場しても、成熟した大人が描かれていないように感じることが多いです。
それは、村上が一人称で書く主人公の男に顕著です。大人の男であれば、どんな人であれ、自分勝手な考え方や、狡さを持っているものです。それが、村上の主人公にはありません。
村上が一人称で書く「私」や「僕」は、村上自身の投影で、どこまでも「正しい人間」として描いてしまいます。
清張は、主人公の男であっても女であっても、間違った考えを持たせたり、好ましくない行動を起こさせたりすることに躊躇しません。
創作を離れても、人間というものは、一面だけからできているものではありません。どんな人間の中にも、客観的な意味での、良い面と悪い面が混ぜこぜになっています。
ある時は良い面が、別のある時は悪い面がというように顔を出し、その濃淡がそのときどきで異なるため、ひとりの人間が採る行為や行動が実に複雑になります。
それを文章で表現するのが純文学といわれるものでしょう。
もっとも、純文学とそれ以外の小説を分けて考えているのは日本ぐらいのもので、海外ではそんな分け方をせず、それぞれの作家が、描きたいものを描いているのではないかと思いますが。
小説に高尚も高尚でないもありません。どれだけ生に近い人間が描かれているかです。
そんなことを、読み始めたばかりの清張の短編集にあった短編小説読みながら考えました。