いろいろな意味で節目となった大相撲の初場所が終わりました。平成の大横綱といわれた貴乃花が今場所限りに引退し、代わってモンゴル相撲でかつて“関脇”(だったかな?)まで昇進した父を持つ朝青龍が優勝を果たし来場所の横綱昇進を確実なものにしました。
まず貴乃花ですが、昨夜も彼の特別番組が組まれ(スーパーテレビ特別版「苦悩と決意の15年_横綱貴乃花密着604日今初めて明かす真実」日本テレビ系列/21:00~22:24)、私もそれをそれほど強い関心はないながらも見ました。番組は貴乃花礼賛に終始し、司会を務めた徳光和夫アナウンサーが貴乃花を精一杯「よいしょ」しており、途中で見るのをやめました。
日本のマスメディアには本当の意味で真実に迫ったドキュメンタリー番組は作れないように思います。真実に迫りたいのであれば、当事者にべったりの番組にはすべきではありません。しっかりと真実を見据え、当人が嫌がるような側面にもしっかりと光を当てるべきです。
「若貴時代」といわれ、兄弟が切磋琢磨してあの時代大相撲を大いに盛り上げたわけですが、その兄弟の真実の姿についても触れるべきです。
これは半ば公然となっていることですが、貴乃花と兄の元若乃花であるスポーツキャスターの花田勝さんは“異父兄弟”、つまり父親が異なる兄弟なのではないか、とはよくいわれることです。それは顔形を見ても明らかです。
貴乃花が実の父である二子山親方(元大関貴乃花)と母親である憲子さんとの間に生まれたのに対し、兄は実の母と父の兄であるかつての大横綱・先代の若乃花なのではないかといわれます。要するに、花田勝さんにしてみれば伯父に当たる人が実の父ということになります。
そうした背景を知ることで、その後の二人の力士人生も理解できるような気がします。
若乃花は現役を引退したあと、角界を離れて別の人生を歩みました。本来であれば長男である彼が部屋を継いでもよさそうなものですが、そこには今書いたような深い事情が絡み、花田勝さんは貴乃花に気兼ねをして自分の方から身を引いた、と取れば頷ける話です。
こうした人間模様は何も角界に限ったことではなく、いたるところにあるのかもしれませんが、それが有名人であるがゆえにより強いスポットライトが当てられてしまいます。しかし、それを避けていてはより深いところには迫れないでしょう。
以前に何度となく週刊誌で角界の男女関係を巡る“ドロドロの人間模様”が書かれているのを目にしましたが、「かつての人気大関の女将さんは部屋の若い力士に次々に手を出し、それによって将来有望な若手が何人も角界をあとにした」というようなことが書かれていました。そのときにはそれが誰を指すのかわかりませんでしたが、今はそれが誰なのか察しがつきます。
そうしたことを報じることはタブーなのかもしれませんが、それをオブラートに包むような報じ方をする限り、真実の姿は見えてこないと思います。
目を大相撲そのものに向けますと、来場所は東西の横綱を共に外国人力士が務めることになります。これを「相撲の国際化」と捉えれば好ましいことかもしれません。
今日の朝日新聞では「大相撲をどうする」という見出しで、高砂親方(元大関・朝潮)、作家の乃南アサさん、そしてスポーツ・ジャーナリストのマーティー・キーナートさんのお三方がそれぞれの視点から大相撲のあり方に対する要望を述べています。
その中では外国人のキーナートさんが最も「相撲の国際化」を好意的に受け取っています。以下はその抜粋です。
一時はハワイ勢が席巻したが、今はモンゴル出身者が32人もいる。ブルガリア、チェコ、グルジアなどからも体の大きな若者が次々と入門している。(中略)だけど最高の相撲を見ることができれば日本人か外国人か関係ないはず。それが本物のファンです。米国では「イチローが首位打者になった」とは言うけど、「外国人が首位打者を奪った」とは言わない。残念ながら日本にはまだ島国根性が残っています。いつ卒業するんですか、いつまで子供のままでいるんですか、大人になりなさいと言いたい。一部屋全員が外国人だったとしても構わないじゃないですか。強い横綱だったら誰でもいいんです。
私個人の感想をいわせていただければ、キーナートさんはかなりずれているといわざるを得ません。ハッキリいって「認識不足」です。
その前に、アメリカという国は力のある者には対等な評価を与える「大人の国」ということですが、それについては別の分野から異論があります。そんなに大昔の話ではありません。
日本がバブル経済絶頂期の時代、日本は有り余る経済力でアメリカに進出しアメリカの企業を次口に買収しました。それをアメリカは相当に認めるほど“大人”だったでしょうか? 答えは「NO」です。それは日本の進出ではなく、彼らには“侵略”に映ったのです。そしてバカげた日本のマスメディアはそのアメリカ人の尻馬に乗り、一緒になって自らの日本経済を叩きました。
その一件だけを見ても、アメリカだってまたまだ大人になりきれていない「お子ちゃま」ではないですか。
話を大相撲に戻しますと、キーナートさんが展開するような主張は割と多くの識者からも聞かれ、現に高砂親方にしても「これまでは○○県出身だったものが、○○国出身に変わっただけ」とおっしゃっていますが、果たしてそうだろうかと私は思ってしまいます。
例えが果たして適切かどうかわかりませんが、大相撲というものは歌舞伎と同じようなものだと私は考えています。
端的にいえば、いい意味で、どちらも「見世物」であると思います。
それが、一部の部屋が手っ取り早く関取を輩出しようとして腕力に勝る外国人の新弟子を呼び集め、他の部屋がその流れに追随した結果、今日ように外国人力士隆盛を生んでいるように思います。
同じようなことが歌舞伎の世界で起こったとしたらどうでしょうか? 「より良い歌舞伎を楽しめるのならそれもグッドアイディーアじゃな~い。青い目の歌舞伎役者大歓迎! 日本人よもっと大人になりなさ~い」といわれて素直に納得できますか?
大相撲の歴史についての知識は持ち合わせていませんが、想像するに、江戸時代の庶民は身体が大きくて腕力に勝る大男のぶつかり合いを見て楽しみ、明日への活力を養っていたのではないでしょうか。そしてここがポイントですが、そこにはスポーツとしてよりも、一つの型が持つ美のようなものを見ていたはずです。
そうしたことから私が考えるに、現代の大相撲は、スポーツの面ばかりが強調されてしまっているところにそもそもの“悲劇”があるように思います。スポーツであるからには勝つことだけが全てで、そこでは決まり手の美しさなどは度外視され、たとえばハワイ出身の力士のように組んだ相撲は一切取らず、ひたすらその太い腕で相手を土俵の外に押し出して勝利を勝ち取る、といった美しさに欠ける決まり手ばかりが蔓延ることになります。
それでは、見る者に「美」を感じさせるような要素が生まれるはずがありません。
加えて、日本人の力士も外国出身の力士に体格で負けてはならじとばかりに必要以上に贅肉をつけることに励み、それがたとえば貴乃花の場合には膝に多大な負担をかけ、結果的に力士寿命を縮めることにつながった、とはいえないでしょうか。
先に例を挙げたキーナートさんは実に効率的な改善策を示していますが、私はそれらは逆に大相撲をさらに悪い方向へ“改悪”する結果になるだけだと思います。
世の中には理屈では理解できないものがあっていいわけで、その一つが大相撲であると思います。どこかの女性知事さんは大相撲の土俵の上に上がりたいと駄々をこねますが、社民党の土井たか子党首ではありませんが、「ダメなものはダメ!!」といい続けることも大切でしょう。
だって、大相撲ってそういうものなんですから。無理に常識を持ち込んだら混乱するだけです。
いっそのこと、大相撲のその日の勝敗をスポーツ・コーナーで取り上げるのではなく、芸能の話題として取り扱ったらどうでしょうか?
世の中の流れとしては「相撲の国際化賛成」「外国人力士賛成」で進みそうですから、私の考えは多分少数意見で、結局はスポーツとしては発展するものの、日本の伝統文化としては衰退していく運命にあるといえそうです。
それにしても、キーナートさんの「一つの相撲部屋が全て外国人力士になっても全く問題ない」という意見に手放しで賛成できますか? 日本人が大人か子供かは別にして。