今日の朝日新聞家庭欄にちょっとばかり考えさせられる記事が載っています。私自身は年賀状は出さない主義なのですが(←というほど大げさなものではありません(^_^;)、それに関する話題です。
朝日新聞家庭欄には「ひととき」という一般読者、主に主婦など女性が投稿するコーナーがあり、そこに寄せられたある投稿(1月13日に掲載)に対して大きな反響があったということです。その投稿の要旨を以下に転載させていただきます。
彼女の年賀状幸せって何だろう。元旦から考えさせられた。きっかけは一枚の年賀状。友人の家族写真だ。「幸せなんですね。それを見せたいのですね」。なぜか、そんな意地悪な言葉をなげかけたくなった。ひがみである。夫の両親と同居し、夫には怒鳴られ、ねぎらわれることもない。それでも子どもはよく育ったし、悪くない人生、と思っていたのに。一方、渡米して独身のまま研究を続ける友からは、「助教授になった」とカードが届いた。涙がこぼれた。運ではなく、努力によって得られる幸福を求めるべきだと今、強く思う。(主婦・47)
さっきも書きましたが、私は年賀状のやり取りというのは子供の頃からほとんどしたことがないまま過ごしてきましたので実感はありませんが、想像するに、それが友人からであっても「幸福そうな家族写真」付きの年賀状が届いたら、新年早々心中穏やかではないと思います(^_^;
とりわけ私の場合は、両親も唯一の姉弟だった姉も共に他界し、肉親が一人もいないため(おまけに配偶者も子供もいない独身者←これは自ら望んでいる状況ですが)、「家族の幸せ」というものに対して人一倍敏感になってしまうかもしれません。
この感情は何なんでしょうね? やっぱりひがみってヤツでしょうか?
そんな誰の心の中にもありそうな感情を素直に表したのが今回の投稿で、それであるからこそ反響も大きかったようです。
今日の特集記事でも、投稿者に共感したという意見が多く寄せられています。ある主婦は次のように書き、そうした葉書は努めて“無視”すると独自の“自衛策”を披露されています。
息子のことで悩む毎日。いくら努力しても状況は変わらない。幸せそうな手紙を読み返すとつらくなるので、ま、いいか、とわきにおいてしまいます。
一方それとは逆に、それほどまでに受け取った相手を傷つけているとは思いもせずにそうした年賀状を送り続けてきたという人の立場からの反響も紹介されています。
子どものいない家族に出すのは控えてきたが、幸せを誇示しているとは考えたこともなかった。親子3人、元気に暮らしています。(というメッセージのつもりだ)
出す方と受け取る方で、受け取り方を巡ってこれほどまでにギャップのある事柄も珍しいかもしれません。
話は替わりますが、私が日課として聴いていますNHK-FMのリクエスト番組に「サンセットパーク」という番組があるのですが、ここでも似たような経験をたびたびさせられています。
この番組はリスナーから寄せられるリクエストカードに沿って曲がかかる音楽番組なわけですが、そのカードにはリクエスターの近況が添えられています。そして、その文面が問題です。
中に、毎回のように自分の夫や妻との話を書いてくる人がいます。この場合も本人には全く悪気はなく、それこそすぐ上で書いた家族の写真付き年賀状を出す人と同じで、「こんな風に楽しく、元気にやっていますよ~」ぐらいの意味でしかないと思うのですが、それを聴かされるほうはそれほど素直になれないときも多々あります(^_^;
特に私のようにヘソが曲がってついているような人間にかかると、「けっ。またいつものおのろけが始まっちゃったよ。ハイ、ごちそうさま。おみやげ、おみやげ」と思うこともしばしばです。
そういえば少し前(1月18日)の「真剣10代しゃべり場」(NHK教育)でも似たようなテーマが取り上げられていたことをこれを書きながら思い出しました。その日のテーマは「どうしたら自分を好きになれますか?」で提案者の女子高生は、自分の中にあるひがみやねたみの感情を自分で醜いと思い、それをどうしたらなくせるのかを「しゃべり場」のメンバーに問いかけていました。
その回にゲストで出演されていた精神科医の香山リカさんは、そうした感情は誰にもあることで、特別に自分は醜いと悩む必要はない、というようなことをアドバイスしていました。
このように差し出した相手に誤解を与えてしまいかねない「家族写真付き年賀状」ですが、その「意味ある」作り方というのを思いつきましたので以下にご披露してみたいと思います。ま、それほど大層なことでもないんですけれどね。
それは、継続して家族の姿を記録し続けるというものです。
つまりは、単なる思いつきや気まぐれで作った写真付き年賀状を一年や二年送りつけるのではなく、毎年茶の間なら茶の間、あるいは応接間のような決まった場所で家族全員の写真を撮り、それを年賀状にプリントするのです。
それを何年も何十年も続けたのならそこに意味は出てくるように思います。その代わり、幸せな時期ばかり写真にしてはいけません。不幸な時期もしっかりと記録に残す覚悟が必要です。
“茶の間の華”ともいえる幼い我が子が成長する時代は、家族にとっても上り坂です。しかし、年とともに必ず下り坂を迎えます。子供が巣立ち、昨年まで一緒のフレームに収まっていた家族が一人減り、二人減り、気付いたら老夫婦だけになるかもしれません。その二人も年々顔には深いしわが刻まれるようになり、最後には自分だけがたった一人残されるかもしれません。それでもその写真を年賀状にプリントして送るのです。
私が最も敬愛する画家にレンブラント(17世紀のオランダの画家)がいます。彼は人物表現に飛びぬけた才能を発揮し、以後今日に至るまで、彼以上に人間を深く表現した画家は一人として生まれていません。
彼は、自分自身を描いた「自画像」を数多く残したことでもよく知られています。そしてその「自画像」は、今も上で書いたような「記録」の実践にもなっているのです。
彼は市長も務めた家柄の娘・サスキアと結婚し、画家としても認められ、幸せの絶頂にあった時代から、自分の「自画像」を残し始めました。
その後彼の人生は暗転し、様々な困難に直面します。最愛の妻サスキアを若くして失い、その後、自らの浪費癖もたたって財産を失い、唯一の理解者であった愛人(サスキア本人の遺言というよりも、彼女の財産を管理する者により、レンブラントが他の女性と結婚すると彼女の財産を相続できない仕組みになっていたため)のヘンドリッキェや息子のティトスをも失ってしまいます。
画家としての名声もすっかり衰えた彼は、自宅(かつての自宅は現在美術館になっています)を手放し、屋根裏部屋のような狭いアトリエで寝起きし、それでも創作意欲は衰えることなく自らに真正面から向き合い、それをカンヴァスに残し続けました。
後世の私たちが彼の残した一連の「自画像」に触れたとき、世間的には不幸の中にあったはずの時代の作品により強い感銘を受けてしまいます。そういった意味でいいますと、少なくとも画家にとっての「幸せ」とは、実は世間一般の人にとっての「不幸せ」の状態であるのかもしれません。
そんなレンブラントも一人の生身の人間で、聖人でもなんでもなかったはずですから、自分が置かれた環境を恨み「どうして自分だけが、、、」と思い、「幸せ」そうに生きる人間をねたんだことと思います。
そのレンブラントが偉かったのは、そうした自分から目をそらすことなくじっと見つめたことです。見つめて見つめて見つめ抜いて、表層が取り払われたような人物像をカンヴァスの上に定着する姿勢を終生貫き通したのです。
そこからいえることは、ねたみの感情を持つことが醜いのではなく、そこから目をそらして誤魔化す行為自体が醜い、ということではないでしょうか。
いささか話が大きくなってしまいましたがf(^_^)、新聞に載っていた記事からそんなようなことを考えてしまった次第です。
あの人畜無害とも思える漫画の『サザエさん』でさえ、見る人によっては「(あの幸せそうな家庭の雰囲気に)傷つけられる」と感じるのだそうで、事ほど左様に「幸せの押し売り」には十分に気をつける必要はありそうです。