久しぶりで、松本清張(1909~1992)の作品を電子書籍で読みました。
私には読書にも一定の傾向があるようで、このところは、山口瞳(1926~1995)や井伏鱒二(1898~1993)が書いたエッセイを読むことが続きました。
これはこれで楽しいのですが、そればかり続くと、今度は物語を読んでみたくなります。そこで、清張の作品を読みました。
清張は昔、文藝春秋から刊行された全集をすべて定期購読して読みましたので、今回読んだ作品も、そのときに読んだかもしれません。しかし、憶えていないので、電子版で読みました。
「『松本清張全集 第3巻』(1971年、文藝春秋)では、殺人の実行者を減らし、犯人のラストの科白を変更するなどの改稿が加えられた」。ということで、文藝春秋から刊行された清張全集に本作も収録されていたであろうことがわかりました。
今月10日まで、Amazonの電子書籍で、該当する書籍に50%のポイントがつくキャンペーンをしていることに気がつき、それに該当したのでその作品を手に入れました。
これについて書いたネットの事典ウィキペディアで確認すると、本作は月間総合雑誌の『宝石』に、1965年10月号から1968年3月号まで連載され、加筆訂正した上で、1968年7月に光文社から刊行されたようです。
題名の『Dの複合』が謎めいています。それが何を指すかは、作品中に書かれています。
本作に限りませんが、小説を推理小説の形式で表現する場合は、それを執筆する作家と、それを読む読者に、制約がかかります。
それが推理を必要としない小説であれば、登場人物が現在進行形で起きていることの真実がわからなくても、読者にはそれが示され、わからずに行動する登場人物を、神の目線で眺めることができます。
しかし、推理小説では、すべてを承知しているのは作品を書いている作家だけで、読者は何もわからない状態で最後まで付き合わされることになります。
昔は探偵小説と呼ばれ、その後に清張が書いて推理小説と呼ばれる分野が生まれています。
アガサ・クリスティ(1890~1976)が書いた『エルキュール・ポワロ』シリーズは、天才的な探偵のポワロが事件を解き明かす形式ですから、探偵小説と呼ばれるべき分類になりましょう。
それがドラマ化された『名探偵ポワロ』がNHK BSプレミアムで放送中で、私は毎回録画して見ています。
クリスティが書いた『名探偵ポワロ』には、ひとつの形式があります。それは、話の終わりに関係する人物を一堂に集め、その人物たちを眺めながら、ポワロが事件のあらましを述べ、最後に犯人を名指しして終わることです。
清張が書く推理小説には、探偵小説のような探偵は登場しません。推理する人間は、作品ごとで変わります。また、推理する人間の推理が見当違いであることも多いです。
それでも、最後に、事件のあらましと犯人を一気に書くことは、クリスティの形式と変わりません。
今回読んだ『Dの複合』でも、ひとりの人物がある人物に宛てた手紙に事件の背景と、それに絡む人間模様が綴る形式を採り、読者に開示しています。
そこへ達するまで読者が読まされるのは、事件に直接関係があることもないことも含めた「伏線」です。
その線が犯人に結び付かないかのように書かれているため、途中である人物を犯人と疑いつつも、犯人がわからないまま最後まで付き合わされます。
本作の主人公は、名がそれほど売れていない作家の伊瀬忠隆です。
その伊瀬に、小さな出版社から連載執筆の依頼が来ます。辺境に旅をし、紀行文とともに、その地に伝わる伝説を絡めて書いてくれ、というものです。
伊瀬はその話を受け、そのシリーズ物を担当する浜中という若い男と、日本各地へ取材旅行に出ます。
はじめに訪れた丹後半島にある木津温泉に宿をとりますが、そこで偶然、事件らしいことが起き、それがのちのち、予期せぬものにつながっていくように書かれています。
伊瀬の一回目の連載が雑誌に載ると、早速反響があり、ひとりの読者が伊瀬の自宅を訪ねてきます。それが、坂口みま子という30前の女性ですが、彼女が非常に変わっていることに興味を持ちました。
みま子は、伊瀬が浜中と取材に行った場所をあらかじめ知っていたようなことを、初めて会った伊瀬に話し、伊瀬を驚かせます。
そして、取材のために鉄道で移動した距離が、2回とも135キロであることを指摘したりします。読者としても、「135」という数字にどんな意味があるのか、考えずにはいられなくなります。
その移動距離は、偶然だったのか、それとも仕組まれたものか、ということになります。
みま子は、精神薄弱な女性で、数字にだけは異常に興味を持つ「計算狂」とされています。
本作は、1993年にフジテレビがドラマ化しています。私はそのドラマは見ていませんが、見たとしても、期待外れの出来栄えでしょう。
過去に、清張作品をドラマ化したものをいくつか見ましたが、どれもいい出来ではありませんでした。
清張の『けものみち』(1962)を、1982年にNHKがドラマ化し、『土曜ドラマ』枠で放送した分を、昨年だったか、放送されたときに見ました。
本ドラマの脚本はジェームズ三木(1934~)、演出は和田勉(1930~2011)、出演は名取裕子(1957~)、山崎努(1936~)らでしたが、これは良い出来で、面白く見ました。
本作を原作として映画やテレビドラマを作るのであれば、推理形式を採らず、出来事を起きた順番に撮っていったらどうか、と考えます。
本作は、ひと言でいえば「復讐劇」です。復讐でなかったら「敵討(かたきう)ち」です。暗く燃える心を持つ人物を主人公に据え、それを追っていったら面白いものができる、かもしれません。
本作を読んだあとは軽いものを読みたくなり、村上春樹(1949~)の紀行作品集『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(1999)を読み始めました。
本作も、50%のポイントがつくときに手に入れました。
ウイスキーの故郷を村上夫人とふたりで訪問したときのことが記されています。村上の小説は、文章は読みやすいものの、内容には素直に入り込めないところがありますが、エッセイはとても読みやすいです。
作品には、村上夫人が撮影した写真が載っています。そのため、本作は、いつものKindle端末ではなく、Kindleのアプリを入れたタブレットPCで読んでいます。
Kindle端末は、紙の印刷に準拠するように、文字がデジタルで「印刷」されたように表示されます。ですから、どこまで拡大させても、デジタルの文字のように、ギザギザのラインにはなりません。
また、白黒しか表示されません。その点、タブレットPCであれば、写真もカラーで表示でき、愉しむことができます。
それで、本作は、タブレットPCで読んでいるのです。
本作を読み始めたことで、「シングルモルト」がどういうものか、初めて理解できました。大麦麦芽から抽出されたものがシングルモルトで、原酒のようなものでしょう。
シングルモルトは、一般的に流通するウイスキーに混ぜられることに使われるそうです。
清張の『点と線』(1958)が知られます。今回読んだ『Dの複合』にも、『点と線』の題がつけられなくありません。清張自身が、「計算狂」の一面があるといえましょう。