大型連休の最終盤となりましたが、この連休が始まる直前の先月27日、NHK BSプレミアムの「プレミアムシネマ」である映画が放送されるのを知りました。
題名とだいたいの内容を知っていた映画ですが、録画してまで見るつもりはありませんでした。しかし、ネットの事典ウィキペディアで確認すると、オードリー・ヘプバーン(1929~1993)の遺作であることがわかり、録画だけはしました。
スティーヴン・スピルバーグ(1946~)が監督した『オールウェイズ』(1989)という作品です。
そんなわけで、録画はしたものの、すぐに見る気は起きませんでした。そのうちに、気が向いたら、と数日間を置き、なんとなく見始めました。
見始めたら、私にとっては、期待外れで、よくあるドタバタな展開に嫌気がさし、見始めてそれほど時間が経たないうちに、見るのを一度止めました。
スピルバーグが作品を撮る頃になると、制作が始まる前に、様々なリサーチをするようになった(?)のでしょう。それで得られた「データ」のようなものに作品の骨格を当てはめ、テレビ番組が、時間ごとの視聴率を気にしながら番組を作るように、映画も観客を飽きさせない作り方をするようになったような印象があります。
それだから、米国のドタバタテレビ番組を見せられているような感覚になり、見るのが馬鹿らしく感じられたのです。
本作の脚本はジェリー・ベルソンですが、ウィキペディアの記述が本国の米国でもないところを見ると、それほど知られた人ではない(?)のでしょうか。
監督のスピルバーグは、本作を、二重の意味で入れ込んで作ったのであろうことが想像できます。
本作は、『A Guy Named Joe』(ジョーと呼ばれた男)(1943)を現代にアレンジしてリメイクした作品です。ウィキペディアに書かれていることが本当だとすれば、スピルバーグは本作をとても評価していたのでしょう。
『ジョーと呼ばれた男』は、ダルトン・トランボ(1905~1976)がオリジナルの脚本を書いています。トランボは、米国で赤狩りが吹き荒れていた時代、主要な迫害者のひとりにされます。そのため、それが収まるまでは、別のペンネームを使い分けて制作に加わっています。
トランボが赤狩りの影響を受けながら書いた作品として有名なのは『ローマの休日』(1953)です。トランボはこの作品を原案し、イアン・マクレラン・ハンター(1915~1991)と共同で脚本を書きながら、当時の作品では、トランボの名がクレジットされなかった(?)と聞きます。
『ローマの休日』といえば、オードリー・ヘプバーンの出世作といえましょう。その作品に、トランボが大きく関わっていたのです。
その因縁が、ヘプバーン生涯最後の作品となった『オールウェイズ』でもう一度現れます。本作が『ジョーと呼ばれた男』をリメイクしたと書きましたが、その作品の脚本を書いたのがトランボだったのです。
ということから、ヘプバーンはトランボの『ローマの休日』で「世界の恋人」となり、トランボの『ジョーと呼ばれた男』をリメイクした本作で、ヘプバーンの女優人生に幕を引いたのです。
これもウィキペディアで知ったことですが、スピルバーグにとって、ヘプバーンは長年にわたる憧れの存在だったそうです。
きっかけは、彼が十代の頃、両親に無理やりに連れて行かれ、ドライブインである映画を見たことです。それが『パリの恋人』(1957)という作品で、ヘプバーンが主演していました。
ついでながら、『パリの恋人』を監督したスタンリー・ドーネン(1924~2019)が、ヘプバーンを主演に起用した『シャレード』(1963)が、おととい(4日)、「プレミアムシネマ」で放送されたばかりです。
今回のそれは、デジタル・リマスター版ということで、録画しました。これを見終わったら、本コーナーで取り上げるかもしれません。
『パリの恋人』を見た若きスピルバーグは、ヘプバーンにおそらく恋をし、彼女が憧れの対象になった(?)のでしょう。監督として有名になってからも、いつかはヘプバーンと一緒に仕事をしたいという想いがあったはずです。
その長年の「夢」が本作で実現されたことになります。のちに彼は、本作でヘプバーンと一緒に仕事ができたことを、人生の最大の喜びのひとつと語っています。
一方のヘプバーンも、スピルバーグの才能を評価していたようで、本作で出演を依頼されたときは、心から喜んだことが伝えられています。
このように、制作の裏側ではいくつの奇蹟が重なっていたわけですが、それを見ると、私には米国のドタバタテレビドラマを見せられているような印象を持ちました。
主演のリチャード・ドレイファス(1947~)は、スピルバーグの『未知との遭遇』(1977)でも主演しており、その作品の彼が私は好きでした。
はじめにも書いたように、リサーチをかけた上で、見る人に飽きさせない展開になっているため、ある意味では楽しく見られますが、それが半面、ありきたりのように思われ、深みが感じられないのです。
出てくる出演者も、その場のノリで演技をしているように感じられなくもありません。
こんな風に、あまり乗り気ではありませんでしたが、気を取り直し、最後まで見ました。
途中、感心させられたシーンがあります。
ドレイファスが演じたピートの元同僚のアルが、ピート亡きあと、山火事を消火するパイロットを養成する学校の校長になります。
その太ったアルが、小高い丘の上で、パラソルを広げ、訓練生の飛行訓練を監視しています。アルの助手(?)の男が、アルのために、丘の下から上まで、大きなラジオカセットレコーダー(ラジカセ)をひとりで運び上げます。
それをワンカットで見せるシーンがあります。カメラは丘の下から、ラジカセを運ぶ男を追い、丘の上に着いたとき、上空を訓練生が操縦する飛行機が通過していくのです。
これをワンカットで見せるには、飛行機の飛行とも合わせなければならず、難しかっただろうと感じました。
ヘプバーンが演じたのは、この世の人ではありません。ヘプバーンが演じる時、演じる相手は、こちらもこの世の人ではなくなった、ドレイファスが演じるピートです。
本作には大勢の出演者が登場しますが、ヘプバーンの登場場面は、ピートとふたりだけです。ヘプバーンに演技の指示を出すスピルバーグとしても、スタッフや出演者の数を絞れるだけ絞り、ヘプバーンをより身近に感じたかった(?)のかもしれません。
ヘプバーンが演じるハップは、見た目はこの世の人と変わりませんが、この世とは縁が切れた聖人のようなもの(?)でしょうか。その彼女が、この世を去ったばかりの「新人」であるピートに、「助言」を与えるのです。
キリスト教を信奉する人には、守護聖人や天使が身近なのでしょうか。本コーナーで取り上げたことがある『素晴らしき哉、人生!』(1946)でも、まだ翼をもらえない「二級天使」が、現世の人間を護る様子が描かれています。
ピートは、この世を離れる直前まで恋人だったドリンダへの恋心を強く持っています。
ハップはそんなピートに、彼女の現世の幸せを望むのであれば、早く別れてあげることです(だったかな?)、と助言します。
『煙が目にしみる』(1933)という音楽が、切ない気分に誘います。
ヘプバーンは本作が公開された三年後にあちらの世界へ旅立っています。本作でハップを演じながら、架空の聖人の意味を、感じていたかもしれません。