昨日(2日)の午前7時から、NHK BSで「横尾忠則 87歳の現在地」が放送されました。これは、今年の3月にNHK BSプレミアム4Kで放送された番組です。
少し前にそれがNHK BSで再放送されることを知り、早くから録画の予約をしていました。
私は横尾忠則(1936~)の作品そのものがそれほど好きというわけではありません。
彼は西洋絵画の歴史や技法を学ぶことをせず、本能的に絵具を使い、コラージュを織り交ぜて、自己流の作品を作りあげています。
どんな時代もマスメディアは、珍しい人が登場するとそれを盛り立て、時代の寵児に祭りあげます。若き日の横尾もマスメディアによってその地を得て、それが今に続いています。
彼は途中で、商業美術から画家宣言をしたりしていますが、彼がやっていることは、それ以前と以後で変わったことはありません。彼流の思いつきで筆を動かし、それを「作品」としていることです。
今回、番組は彼の制作の様子を記録していますが、技法的なものは何もなく、気ままに絵具をつけているだけです。
昨年9月12日から12月3日まで、東京国立博物館内の表慶館で展覧会「横尾忠則 寒山百得」展を開きましたが、そこに展示された102点の作品を一年で描き上げたそうです。
彼曰く、絵具をつけるそばから自分が描いた絵を忘れるそうです。私は昨年の彼の展覧会へは行ってはいませんが、もし行ったとして、百点ほどの作品を一点一点じっくり見て、関心することをして、どれほどの意味があるでしょう
描いた横尾自身が、展覧会場へ行き、自分の作品が並んでいるのを見る様子もありましたが、「こんなに疲れたことはない」とカメラの前で正直に語っています。
今回のドキュメンタリーのため、彼は「新作」を描きましたが、制作期間は五日です。
自宅から自転車で行けるところにアトリエがあり、彼は毎日そこへ通っているようです。
彼の場合は、その気になった時にカンヴァスの前に立つのでしょう。その気にならないときは、別の部屋のソファに寝ころび、週刊誌を眺めたり、ぼんやりして過ごすようです。
アトリエへは行っても、一日何もしないで戻ることもあるようです。
番組では、彼の創作活動のほか、彼がさまざまな質問に答えた文章を一冊にまとめた『老いと創造 朦朧人生相談』から抜粋した質問と横尾の回答を紹介しています。
横尾の人生相談は、Amazonの電子書籍版で読むか、あるいは、オーディオブックのAudible版もありますから、それで聴くかしようと思っています。
ある質問者は、人前でのスピーチが苦手だといい、どうしたらそれが克服できるか横尾に尋ねています。尋ねられた横尾自身がスピーチが苦手だといいます。
そして、私がおもしろいと思ったのは、上手な人のスピーチほどあとに残らないと答えていることです。同じようなことは本コーナーで以前書きました。
スピーチが逆に下手で、つっかえつっかえ語ったり、いいよどんだりする話し方の方が、聴いた人に残ると述べます。これは私も同じ考えを持ちます。
この話の続きで、番組のディレクターをする男性が、自分はディレクターという仕事に向いていると思うかと横尾に訊く場面があります。
横尾は昔から「大衆」を相手にしてきたため、ときには「演技性」が現れます。その一方で、それ抜きに、自分の考えていることをそのまま表に出すこともします。
今回の番組でディレクターをした男性は、過去に二回、横尾を追ったドキュメンタリーでディレクターをしたそうです。
横尾は彼がディレクターをしたドキュメンタリーは出来が良くなかったといい、綺麗に作ろうとし過ぎたからだと理由を述べました。
過去のそのドキュメンタリーを撮っている時、私が怒ったりしたこともあったのに、それが作品に使われることがなかった。予定調和の作りにせず、もっと、生の感じを入れた方がおもしろくなる、というよなアドバイスをしています。
それに従ったからか、続くシーンでは、横尾が今回の取材中に怒りを露わにした場面を挿入しています。
それは朝の時間で、横尾の知らないところでカメラを廻すことに腹を立てていました。それは演技でなく、本当に怒っていたのでしょう。
朝の時間は彼にとっては大切で、ひとりで静かにしていたいのだそうです。それを撮影しようというのは何事か、ということらしいです。
今年の四月、朝日新聞の「語る 人生の贈りもの」というコーナーで、横尾忠則が自分の人生に起きたことを順に語るシリーズがありました。
それ以前から彼のことは知っていましたが、彼は養父母のもとで育っています。そのような立場に置かれると、多くの場合はそのことを悩んだりするでしょう。しかし、横尾にはそうしたところがありません。
目の前に現れたことをそのまま受け入れることが彼にはできます。
イラストレーターを目指したわけではなく、人と人とのつながりのなかでその道を歩み始め、時代の寵児になっています。
高校を卒業したあと、ロゴマークやポスターの公募に出しては、たまに佳作とかに選ばれたりしたそうです。神戸新聞にカットを応募して時々掲載されたりしたことが縁となり、神戸新聞社へ入社しています。
そこに勤めている時、上司に「新聞会館に勤める女性から君を紹介して欲しいと頼まれた」といわれます。上司にいわれて、夕方に喫茶店に行くと、そこに見たことがある女性がいました。
横尾はその女性を気に入り、一週間後にはアパートを借りて同棲を始めたそうです。女性は横尾より一歳年上で、今も横尾の妻です。今回の番組でも、妻と車に乗って、彼にとっては思い出深い銀座の画廊を訪れる場面がありました。
ニューヨーク近代美術館でピカソ展を見ている時、ピカソ(1881~1973)に直接影響を受けてというわけでもなく、自分の中に画家になろうという考えが現れたそうです。
彼は日本に帰ると今回訪れた銀座の「南天子」という画廊を訪れ、まだ一枚も作品がないのに、個展を開きたいと頼み、その頼みが受け入れられたそうです。
横尾は「超人的」といいますか、87歳になった今も、髪の毛は少しも薄くならず、白髪にもなっていません。腰も曲がらず、自転車で自宅とアトリエを往復できるだけの身体能力が残っています。
それでも、二年ほど前、急性心筋梗塞を起こし、そのときは死に直面するほどだったようです。
今は眼がぼやけ、難聴になり、筆を持つ手が震えるそうです。しかし、それらもすべて受け入れ、横尾はおもしろがっています。
印象派の代表的画家のモネ(1840~1926)は、屋外の光の強いところで絵を描いたことが原因してか、晩年は白内障になり、物が鮮明に見えなくなりました。
それでも描くことを止めなかったため、そうなって以降のモネの作品は、朦朧(もうろう)としています。それがモネの新しい表現とされました。
横尾も震える手とぼやける眼で描くことで、新たな表現を得られたと逆に歓迎しています。
定期的に病院へも行くようですが、病院で医師と冗談を交えて話すのを楽しみにしているようです。難聴で医師の声が聴きにくいといって、補聴器を使いますが、この補聴器に横尾は独自の工夫をしています。
割りばしの先に小さなマイクをつけ、医師にそれを口元に持って行ってもらって話してもうらうのです。
新コロ騒動もあって、横尾は親しい友人や知人が40人から50人が亡くなったと述べています。彼自身も、いつ亡くなってもおかしくないと考えています。
生きることに執着していないのも横尾らしいところです。彼は死後の世界を信じているらしく、そこがどんなところなのか、旅行に行く前の気持ちと語っています。
朝日の連載13回目は、横尾が「体験」した不思議な出来事について語っています。
柴田錬三郎(1917~1978)の挿絵を担当していた1972年、ホテルに缶詰になったそうです。その時、部屋で寝転がってテレビを見ていたら、体が15センチぐらい浮き上り、テレビの画面は砂嵐になり、次の瞬間には巨大な宇宙船の中にいたそうです。
その宇宙船では西洋人風の宇宙人が三人現れ、言葉を用いず、横尾の脳内に直接彼らの考えを伝えてきたそうです。
彼らがいうことには、彼らは横尾を幼年時代から見守っているのだそうです。横尾の「霊体」に交信用チップを入れたいともいってきました。
次の瞬間には、ホテルで横になってテレビを見る自分に戻っていました。横尾が「体験」したことはただの「夢」だったのかは本人以外にはわかりません。
その出来事のあと、国内外のどこでも「UFO(未確認飛行物体)」が現れたと横尾が朝日の連載で述べています。
番組では、横尾の作品が好きという若いミュージシャンが登場させ、その彼に、横尾の生まれ故郷の兵庫県西脇市を訪問させ、横尾とアトリエで簡単な対談をさせています。
横尾の作品シリーズに「Y字路」があります。
横尾が育った西脇には加古川が流れ、そこに鉄道の加古川線の鉄橋が架かる場所があります。そこが横尾には忘れがたい場所だといいます。
その鉄橋がある辺りを上空から見ると、川がふたつに分かれ、Yの字になっています。横尾のY字路シリーズの原点がここにあるように感じます。
番組で制作した作品はタイトルが、仮題なのか、「幽霊列車」で、画面には、横尾の故郷にある鉄道の鉄橋をしたから見上げたように描き、そこを一両の列車が走っています。
無意識に描かれる彼の作品は、彼の中に消えずに残る記憶が現れたものの結果といえましょう。
彼は絵を描いていて、それを描くのに飽きたら、これでおしまいと完成にするそうです。
どれもがいくらでも手を入れられるような未完成に見えます。しかし、人はみな未完成のまま死んでいくのではないかと未完成であることも受け入れてしまいます。
途中で書いた横尾の人生相談に接し、そこでまた、横尾独特の考え方を学ばせてもらうことにします。