本日も、本コーナーは思いつきの独り語り「気まぐれトーク」の形式にて更新をしています。なお、トークは前日の夜に行っています。
本日分の内容につきましては、音声ファイルでご確認下さい。で、そうされない場合は、下にトークを要約して書き起こしていますので、それをお読みになって、トークのだいたいの流れをご想像下さい。
なお、音声ファイルはmp3方式にて紹介しています。再生箇所は前後に自由に移動させることができる、と思いますので、下の書き起こしで見当をつけ、聴いてみたい部分だけを“つまみ聴き”するようなこともできます。ご自由にお楽しみ下さい(^ー^)ノ
トークを要約した書き起こし
今回も夜にトークをしている。前回のトークでは話が途中で終わってしまったので、今回はその続きのトークになる。
前回、途中で終わった話は、今月の24日にNHK衛星デジタルハイビジョンで放送された「アニメ 青春時代・夢に挑んだ男たち」というドキュメンタリー番組を見ての感想。
番組のタイトルにあるように、今では世界的な人気となった日本アニメの黎明期(れいめいき:輝かしい次の時代への始まりの時期=広辞苑)に誕生したあるアニメ制作会社を描いている。
時は1960年代。先の大戦で荒廃した日本が立ち直り、明るい未来を信じて日本中が活気に溢れていただろうか。アニメという新しい表現にも貪欲に取り組み、発展していった時代といえる。
ここから少しは前回分のおさらいになる。
1962年に「タツノコプロ」(公式サイト「タツノコプロ」)が産声を上げる。設立メンバーは、漫画家で社長の吉田竜夫(1932~1977)と弟ふたりの吉田3兄弟。次男の吉田健二氏(1935~)は当時は経理を担当し、三男の豊治氏も九里一平(1940~2023)のペンネームで漫画家になっていた。はじめは「漫画家集団」として会社を興したようである。
そういえば、赤塚不二夫(1935~1935)がフジオ・プロダクションを始めたのも同じ1962年。当時は多くの有能な漫画家があとを追うように登場してきて、こうした制作プロダクションが生まれた、ということだろうか。
吉田竜夫は1932年に京都で生まれている。兄弟は3歳下に次男・健二、そして8歳下の三男・豊治の3人。吉田3兄弟は、竜夫が9歳の時に母を病気で亡くしている。8つ歳下の豊治にすれば1歳で母を失ったことになる。ほとんど母の記憶は残っていないだろうか。
母の死から10年後、今度は父が病死する。両親を失った兄弟の長兄・竜夫は、弟たちを親代わりに育て上げる責任を感じる。竜夫は子供の頃から絵が得意で、それを活かして紙芝居の絵や新聞に挿絵を描いて食い扶持(くいぶち:食料を買うための金。食費=広辞苑)を得ていたそうだ。
竜夫が20歳になった頃、東京で挿絵画家をしないかという話があり、弟たちを残して竜夫は東京へ出て行く。弟たちには「必ず一年後にはお前たちを東京へ呼ぶから」と約束をし、約束通り、一年後に弟たちを呼び、再び一緒に生活を始めた。
竜夫が東京へ出て仕事を始めた1950年代というのは、漫画家という仕事は人々から軽んじられていたのかもしれない。あれは赤塚不二夫が生前テレビで話していた話だったか。赤塚が子供の頃は漫画本がおもちゃ屋だか駄菓子屋だかの片隅に置かれていた、というような話だったと記憶している。
1955年、竜夫は絵物語という表現メディアで『少年プロレス王 リキヤ』を描いてデビューしている。なお、トークでは「少年プロレスラー」などといってしまっている。
このあたりまでは前回分のおさらいで、ここから先が前回分の続きになる。時間にして【11分】ぐらいから。
この先もちょっと前回分の続きになってしまうが、竜夫がほとんどひとりで立ち上げたタツノコプロができた翌年の1963年、日本中の子供たちを熱狂させ、同業者の漫画家たちには強い衝撃を与えた手塚治虫(1928~198)の『鉄腕アトム』のTVアニメの放送が始まる。
それを見た竜夫も強い衝撃を受け、自分も手塚治虫に負けないようなTVアニメを作りたい、と強く願う。自分の頭の中だけで想像したりするだけだったら誰にでもできる。それを実現出来る人は限られる。その困難なTVアニメの製作に竜夫はチャレンジする。
今回のドキュメンタリーで吉田竜夫という人物は強く印象に残ったが、もうひとり私には印象的だったのは笹川ひろし(1936~)という人だ。年齢は竜夫の4歳下になる。現在もタツノコプロの顧問をされているようだ。
番組では竜夫が笹川氏にアニメ製作の相談を持ちかけたように語られていたが、ウィキペディアの記述を見ると、笹川氏の方から竜夫にアニメ製作の話を持ちかけたようでもある。もともとは漫画志望で、実際に漫画家になるが、その後アニメ製作に魅力を感じるようになり、傾倒する手塚治虫の『鉄腕アトム』の製作に関わり、一本の作品を仕上げるまでの行程を把握したのだろう。
笹川氏は当時のことを振り返って語っているが、終始穏やかな笑顔を浮かべているのが印象的。竜夫がTVアニメを製作したいといっても、そのための場所がなく、人材もなく、金もないとないないづくしで、「とても無理です」と助言した、と番組では語っている。その思い出話をするときも、笹川氏は柔らかな笑顔だった。
そうこうしているうちに、三男の豊治が九里一平のペンネームで『少年ブック』という少年向けの月刊誌に連載していた『Zボーイ』のTVアニメ化の話が持ち上がる。それを持ちかけられた竜夫は一も二もなくその話に飛び乗る。が、すべてを自分たちの手で仕上げたいといっても、どう仕上げるか。場所もなければスタッフもいない。
竜夫は持ち前の決断力で勝負に出る。自宅を担保に、製作スタジオの土地を確保する。場所は東京の西の方にある国分寺。その場所を見せられた笹川氏は唖然とする。そこは造成もされていないただの雑木林だった。「木を切り倒してスタジオを建てるんですか?」と尋ねるしかなかった。そのときは、さすがに笑顔はなかっただろうか?
木を切り倒して造成し、プレハブでアニメ製作スタジオを完成させる。アニメ製作工程の道具を人数分だけ揃えるのも大変だったろう。また、撮影するためのシネマカメラも安くなかっただろう。
設備が整ってもスタッフがいない。そこで、新聞求人広告でスタッフの募集をかける。すると、『鉄腕アトム』の効果もあってか、全国から多数の応募があったそうだ。
しかし、アニメの黎明期だけに、経験者はいない。アニメ作りに携わるのは初めてという初心者による素人集団。前職もさまざまで、元自衛官や理髪店員などもいたそうだ。しかし、熱気だけは凄かったらしい。
竜夫はデッサン力に優れ、劇画タッチの作風を得意としていた。手塚治虫が生み出したアニメの主人公とは違う魅力を持つキャラクターを想定していた。
三男・豊治が九里一平のペンネームで連載する『Zボーイ』は、製作の途中で『宇宙エース』というタイトルに変わる。このタイトルを、トークでは間違って『エース・ボーイ』といってしまったりしている。
竜夫自身、TVアニメの製作では初心者だが、優れたデッサン力を持ち、素人集団のスタッフたちには、細部にわたるまで指示を与えた。たとえば、登場人物の瞳の描き方。キラッと光る瞳のキャッチライトの位置は、真ん中ではなく、左右どちらかに微妙にずらして瞳に表情を与えろ、といった具合だ。
朝出勤して来るなり社長室に入り、上がってきた作画をすべてチェックし、直すべき箇所を次々に指示したそうだ。TVアニメは膨大なセル画が必要になる。そのもとになる作画一枚一枚をチェックするとなれば大変な労力と覚悟が必要になる。それをいとわないほど竜夫はTVアニメに賭けていた。
『宇宙エース』を放送局へ売り込むため、パイロット版の製作に入る。当時は白黒の映像であった。当初は1カ月もあれば完成できると考えていたが、右も左もわからない状況で、3カ月過ぎてもめどさえ立たない状態となる。そして、6カ月かかって【15分間】のパイロット版が完成する。
パイロット版の出来が認められ、テレビでの放送が始まる。第1回の放送は1965年5月8日。番組ではその日の新聞のテレビ欄が映ったが、放送時間は午後6時15分から45分まで。おそらくはフジテレビで、そのすぐ下、午後7時からは『鉄腕アトム』が放送されていたことがわかる。
このように、竜夫の野望は短期間で実現できた。しかし、それはただ走り出しただけ。それからが竜夫の、タツノコプロの本領発揮となる。ここまでで【25分】ほど経ってしまい、この続きはまたしても次回に回すことにする。
吉田竜夫のタツノコプロの次回作にして出世作ともなった『マッハGoGoGo』をはじめとする作品群の話は次回のお楽しみということに。