本日も、本コーナーは思いつきの独り語り「気まぐれトーク」の形式にて更新をしています。なお、トークは前日の夜に行っています。
本日分の内容につきましては、音声ファイルでご確認下さい。で、そうされない場合は、下にトークを要約して書き起こしていますので、それをお読みになって、トークのだいたいの流れをご想像下さい。
なお、音声ファイルはmp3方式にて紹介しています。再生箇所は前後に自由に移動させることができる、と思いますので、下の書き起こしで見当をつけ、聴いてみたい部分だけを“つまみ聴き”するようなこともできます。ご自由にお楽しみ下さい(^ー^)ノ
トークを要約した書き起こし
今回も夜にトークをしている。ただ、夜とはいっても午後7時台に話すことが多いが、今回はそれよりも1時間ほど早い6時台に始めている。別に理由はない。たまたまその時間にトークをする環境が整っただけのこと。ちなみにこの時間までに、夕食と入浴は済ませている。
平日の午後6時台は、聴き始めて丸27年経ったNHK-FMのリクエスト番組「サンセットパーク」が放送され、のんびりとトークはしていられないが、今日(28日)は土曜日で放送がお休み(同番組は土日と祝日は放送がない)。それで6時台にトークができるというわけ。
今回のトークは、前回分で話そうと思っていながら、結局話せずじまいとなっていた話。
この夏に、ようやく地上デジタル放送(地デジ)の受信態勢(←というほどのものでもないが)が整ったという話を何度かしてきた。
実際に使い始めて感じたのは、国を挙げて「見ろ! 見ろ!」と推奨されている地デジ放送には見るのに値する番組が本当に少ない。
地デジといったところで今までの番組がアナログからデジタルになるだけで、地デジを契機に内容がガラリと変わるわけでもない。タレントを安易に起用した番組に私の食指はちっとも動かず、タレントが出演する番組ははじめから視聴の対象から外している。
昨今は、国民から準税金のように徴収する受信料で経営が成り立っている「みなさまのNHK」が率先してタレントを起用して安易な番組作りに邁進(まいしん)しているのだから嫌になる。一体全体、NHKは何を考えているのだ。
その代わりといっては何だが、衛星デジタルの放送に地デジよりも食指をそそられる番組が多い。同じ紀行番組にしても、旅人役のタレントが出てこないことが多く、落ち着いて見ていられる。
NHKは衛星デジタルでもタレントを盛んに使って番組作りをしている。その傾向は民放よりむしろ強い。芸能事務所に所属する芸能人は、常識的に暴力団とつながりがあると考えるのが普通だろう。彼らを頭から否定することはしないにしても、日陰に置いておくべき存在。それを、「暴力団のみなさまのNHK」ででもあるかのように、暴力団つながりの芸能事務所のタレントさまを盛んに担ぎ上げて番組作りしているのはまったく解せない。
衛星デジタルで放送される番組でも、私はタレントが前面に出てくるような番組は見ない。衛星の番組は、今も書いたように、地デジ放送よりも安心して見られる番組が多い。
これからお話しするのは、8月24日の夜にNHK衛星ハイビジョンで放送されたドキュメンタリー番組「アニメ 青春時代・夢に挑んだ男たち」。
私が見たのは再放送分だったようで、昨年の10月24日に既に放送されていたようだ。私はブルーレイ・ディスク(BD)に録画をして見た。
本ドキュメンタリー番組の舞台はアニメーションの制作会社「タツノコプロ」。いつもはメモも何も見ないでトークをするが、今回は録画した番組を見ながらメモを取り、それを見ながらトークをしている。これが逆に慣れていないため、要領を得ないトークになっている。
トークではタツノコプロが設立された年を1960年などといっているが、あとで確認すると1962年というのが正確な数字である。ともあれ、アジアで初めて開催された東京オリンピックを2年後に控え、東京を中心に日本が活気に溢れていた時代であったと思う。そんな時代の空気の中でタツノコプロは産声を上げたことになる。
設立メンバーは吉田3兄弟。その中心にいたのが長兄の吉田竜夫(1932~1977)。「竜夫」の「竜」を取って「竜の子プロ」と名づけられたのであった。まさしく、吉田竜夫なくしてはタツノコプロはこの世に生まれなかった。
吉田3兄弟がどのように成長していったかはこのあと話すことにして、成長した3兄弟は東京に出て、はじめは漫画家集団としてプロダクションを立ち上げた。その時点で長兄の竜夫と三男の九里一平(1940~2023)は漫画家になり、漫画の連載を抱えていた。ちなみに次男の吉田健二(1935~)は裏方に回り、当初は経理を担当したそうだ。
タツノコプロが生まれた1960年代は、のちに世界的に人気となる日本のアニメーションの黎明期(れいめいき:輝かしい次の時代への始まりの時期=広辞苑)。
1963年の元日に、手塚治虫(1928~1989)の『鉄腕アトム』の放送が開始されている。ちなみに1回目のシリーズは、3年後の大晦日まで放送され、元日に始まって大晦日に終わるという実にキリのいい放送スケジュールだった。
テレビで放送が始まった『鉄腕アトム』に日本中のちびっ子は大喝采したが、同業者の漫画家たちは大きな衝撃を受けたことだろう。自分たちが日々描く漫画は本の中でじっとしている。それが、手塚のアニメは普及し始めたばかりのテレビの中で縦横無尽に動き回っているのだから。
テレビの『鉄腕アトム』に衝撃を受けた漫画家のひとりに吉田竜夫がいた。
その人の性格は生まれつきのものか、あるいは境遇が性格を作ることに力を貸すのか。竜夫の場合は両方が作用したかもしれない。
竜夫が生まれたのは1932年。生まれたのは京都。子供時代に育った場所を番組では「西九条(にしくじょう)」と紹介している。
私は関東の人間で関西の地理に疎いが、ネットで「西九条」と引くと大阪にある「西九条駅」が真っ先に出てくる。これと京都の西九条が別のものなのかよくわからないが、近くには京都らしくお寺の境内があったりして、子供たちは遊び場には事欠かなかっただろう。
竜夫たち男ばかりの兄弟の母は、竜夫が9歳の時に病死している。いくつになっても母が恋しいのは誰でも一緒。竜夫兄弟の子供時代の経験が、のちに『みなしごハッチ』というアニメ作品の誕生につながってくる。
母を亡くした吉田3兄弟は、母の死から10年後、今度は父にも病気で先立たれる。竜夫が19歳。次男の健二は16歳。一番下の弟は11歳。両親を亡くしたため、長兄の竜夫が弟たちの責任を一人で背負うことになる。
幸いなことに、竜夫は子供の頃から絵を描くのが得意で、その頃には紙芝居の絵を描いたり、新聞の挿絵(さしえ)を描く仕事もしていたらしい。おそらくは、弟たちのため、お金になりそうな仕事を何でもこなしていたのだろう。
また、竜夫は自分の弟たちばかりでなく、近所の子供たちの遊び相手もしていたそうだ。この面倒見の良さと暖かい心が、後年大きな花を開くことになる。
竜夫が20歳になった頃、人生の大きな転機が訪れる。
絵の評判を聞きつけた人から、東京へ行って挿絵画家にならないか、という話を持ちかけられたそうだ。どんな話でも、それが自分たちの生活を維持するためならと、竜夫は弟たちを京都に残して東京へ出て行く。その時既に竜夫は結婚をしていたそうだ。
東京へ向かう前、竜夫は弟たちに「必ず一年後にはお前たちを東京へ呼ぶから」と約束をしている。その約束を胸に、竜夫は東京で必死に働き、約束通り、一年後に弟たちを東京に呼び寄せている。弟たちにとり、これほど頼りになる兄貴もいないだろう。
ちなみに私には姉が一人いたが(2000年に他界)、姉はとても頼りになる姉だった。母が中途失明だったため、姉はしっかり者に育ったのかもしれない。その分、弟の私はおっとりした性格に育った。
昭和30(1955)年ということだから、1932年生まれの竜夫23歳の時、東京へ出て来て3年目頃に絵物語『少年プロレス王 リキヤ』で漫画家デビューを果たしたという。
これは全編漫画という形ではなく、本のページに物語が文章で書かれていて、そのところどころにペン書きのような絵が添えられた体裁になっている。
ちなみに、この作品の原作は、その後、『タイガーマスク』や『巨人の星』、『あしたのジョー』と立て続けに人気漫画の原作を手がけることになる梶原一騎(1936~1987)であったそうだ。
吉田竜夫は京都から東京に出てきて、漫画家としても仕事が入り始めた。約束通り、弟たちも東京に呼び寄せた。このあと、タツノコプロはどのように誕生し、どんな作品が生まれるのか。といった話の続きはまた来週、ではなく、次回以降のトークということに。