今日の地方紙・ブックレビューのコーナーに、私の関心を引く書評が載っています。
美術家・秋山祐徳太子(1935~2020)の近著『泡沫傑人列伝 知られざる超前衛』(二玄社/1500円)の紹介記事です。
私が秋山の存在を知ったのは、毎週日曜日に放送されています「日曜美術館」にゲストで出演された時です。
忘れもしません。1989年5月21日の放送で、その日は画家・牧野邦夫を紹介しました。私はそれまで聞いたことのない名前の画家でしたので、午前9時からの放送は寝転がって何の気なしに見始めました。
ところが、そのあまりに衝撃的な内容に驚き、始まって間もなくから正座をせんばかりの勢いで画面に見入ってしまいました。なぜか心臓がドキドキしたのを憶えています。私は慌ててその日の夜8時から再放送された番組をしっかりとビデオ録画し、未だに思い出しては繰り返し見ています。
その回にゲスト解説者が秋山で、以来、何度となく繰り返し見るビデオの中で秋山を何度も拝見することになり、いつの間にかよく知った人のように錯覚しています。
その後も、「日曜美術館」でたまにお姿を拝見することがあり、そのたびに「変わった人だなぁ。でも、面白い人だ」と思っています。
見るからに、いい意味で、奇人変人の秋山ですが、ご本人がおっしゃることには「奇人変人なんてごろごろいるんだよ。小泉純一郎首相(1942~)もそうかもしれないけど」ということになるそうです。
秋山曰く、「奇人変人」といわれるような人は、「泡沫傑人」がしっくりくるだろうといいます。傑出した泡沫人というような意味でしょうか。
そういえば、秋山が、1975年と1979年の東京都知事選挙に立候補した時には「泡沫候補」と呼ばれたそうです(→ 選挙ポスター)。
そういえば、その選挙を振り返って述べた箇所もあります。
選挙を一種のポップアート化しようというのが僕の戦術で、演歌も歌ったり。あと(東京都知事選挙なのに、気がついたら)演説していた場所が神奈川県だったこともある。
「東京都知事候補が神奈川県下で演説していたらまずいでしょ(^_^;」といった感じですが、選挙のプロにはない泡沫候補(←好意的な意味)ならではといったところかもしれません。
そんなご自身泡沫傑人でもある秋山が、日本国中から選び抜いた50人の泡沫傑人について書かれたのが本書であるわけです。私はいわゆる変人の類が好きですので、実際に本書を買い求めるかどうかは別にして、大いに興味をそそられます。
でもって、ではそもそも「泡沫」とは何かということになると思いますが、独文学者の種村季弘氏(1933~2004)の定義では「本気で一生を棒に振る人」だそうで、秋山もそれには納得気味です。
的を射ていると思いますよ。目標があってそれに向かっているんだけど、どこか人生が減速していっちゃう人。だからどんどんズレていく。その美しさに自分で気がつかない。欲なし、金なし、力なし。それが泡沫の憲法じゃないかな。
その秋山はこんな意味深なことをおっしゃってもいるようです。
今は倫理というものが日常まで入り込んで人間を狭くしていると思うんですよ。小さな権力をいっぱい作って自分たちの身を安全にしている。その中で、悠然と構えているのは泡沫だけ。
私はこの秋山がおっしゃったことには大いに納得してしまいます。
そうです。確かに世の中は常識的に振る舞う人が大半を占め、それらの人を中心に回っていることは疑いようもありません。ただ、あまりに常識的過ぎて、それ以外の非常識を否定してしまうと、世の中窮屈になってしまいます。
そしてまた、ガチガチの常識に縛られた人というのは保身についても手抜かりがなく、せっせと地固めをしています。いわゆる「石橋を叩いても渡らない」といったところでしょうか。
一方、泡沫人は、そんなことにはとんと無頓着で、わが道をまっしぐら、あるいはトボトボと往くだけです。ハタから見たら、彼らには何の保証もないわけで、危なっかしい生き方が心配になるかもしれません。しかし、泡沫人にいわせれば、世間の常識にがんじがらめにされた人々の方こそ、味気ない人生を歩んでいるように見えて仕方なかったりするものです。
泡沫の定義は「欲なし、金なし、力なし」ですか。他でもない私自身が泡沫人の端くれだと思っていますが、確かに上の三つには縁がないかもしれません。ただ、お金だけは邪魔にならないので、欲があるかも、ですが。
いずれにしても、定められたレールを一歩降りることで見えてくる風景があるように思いますが、いかがでしょうか?