先日(3日)の日経新聞のブックレビューで紹介されていた本の記事が気になり、それを切り抜いて置いたところ、今日は別の地方紙にも同じ本の紹介記事が載っていました。『箱庭センチメンタル』(リトル・モア/2200円)という紀行集です。
その本の著者の小林キユウ氏は、地方紙の記者をされたあと、現在はフリーの写真家として活躍されている方です。
記事に添えられたポートレイトを一目見て、以前、NHKの討論番組に出演されていた方だということに気づきました。働くことの意味(意義)を考える討論番組だったと記憶していますが、そのゲストのお一人が小林氏でした。あまりご自分からは発言されず、司会者に促されられながら訥々と話されていた姿が印象に残っています。
彼は地方新聞社に記者として勤務していた当時は、事件が発生すればすぐに現場に飛び、他社の記者やカメラマンと競うように取材していたそうです。それは、昨今問題視されている加熱するニュース報道の現場です。
傍見者の一人として、テレビ画面越しにそれを見ていると、被害者であろうとなかろうと大勢で押し掛けては、マイクやカメラを当人に突き出し、追いかけ回し、被害者に被害を加える加害者の一群のように映らないこともありません。
その渦中の一人として小林氏も仕事をされていたわけです。
その後、彼は職場を離れ、ペン(今ではペンではなく、ほとんどがワープロで記事を書くのでしょうか?)をカメラに持ち換え、フリーの写真家として仕事をされているようです。
立場が替わった途端、見え方が変わったといいます。以下の文章は彼自身の口から語られた率直な思いです。
(他社と競争しながら集団で取材現場に押し掛けた当時は)普段の自分の居場所と事件現場が、地続きである感覚がしなかった。
よく猟奇的な事件や特異な事件が発生すると、マスメディアは「現実感を失った夢見心地のような犯行」といった表現を好んで使いますが、それを報道する側自身も一面夢見心地で取材を重ねている現実が見えてきます。
そんな“群”から独り離れ、かつての事件現場をひっそりと訪ね、ゆっくりと写真に収め、文章を載せる作業を経て生まれたのが今回の小林氏の紀行集である、というわけです。
たとえばその一つして、2000年の5月に「西鉄バスジャック事件」を引き起こした少年の家が挙げられています。
時を置いた今、再び現場を訪れた小林氏は、今や無関係の人々からは事件の記憶も薄れ始め、事件直後集団で押し掛けた現場は落ち着きを取り戻し、自分が住んでいる地面と地続きであったことを今回初めて実感できたといいます。
冷静な心で少年の家の白砂利の庭に目をやると、そこに赤い花が咲いていることに気づいたそうです。
多分、もみくちゃにされながらそこに集団で押し掛けた記者時代には、そんな風景のディテールは視界の中に入っていなかったでしょうし、たとえ目に入ったとしても、心をそこに留めなったに違いありません。
それを補うかのように、彼はカメラに広角のレンズをつけ、今では何の変哲もないように見える“事件現場”を独りで静かに撮し込みます。
彼はこんな事も語っています。
(事件現場を訪れる際の戸惑いや後ろめたさは、いつまでも解消しない。それでも)カメラがあるから、現場へ行く勇気が出る。
私は彼のような仕事はしたことがないのでわかりませんが、そんな門外漢の自分でも、何となく心情は理解できる気がします。
実は私も先日(3日)、美術館へ出かけたついでに、思いついて“事件現場”を歩いてみました。彼と同じようにカメラ(デジカメ)をお供に。私が歩いたのは、このコーナーでも何度か書いています東電OL殺人事件の舞台となった東京・渋谷の街です。
その日は雨降りで、そのことが却って自分の行動を後押ししてくれました。街中でカメラを構えるのはそれなりに勇気がいるもので、雨をよける傘が隠れ蓑になってくれそうな気がしたからです。
まずは、事件の被害者である渡邉泰子さんも毎日降り立った渋谷駅のハチ公口に立ってみました。
ここは待ち合わせに使う人が多く、雨を避けるように駅の出口付近に佇んでいる人が多く見かけられます。駅の周辺のビルの壁面を飾る大型のディスプレイには、せわしなく若者向けの画像が流され続けています。それに合わせた大音響は車や街の騒音と一体化し、嫌でも街行く人の神経を刺激します。
交差点を渡りながら、前方に見えてくるのは特徴的な丸い壁面を持つ渋谷109のビルです。
泰子は東電での仕事を終えると渋谷の街へ降り立ち、このビルの地下にある更衣室で通勤服から“夜の服”に着替え、厚い化粧を施したのち地上へ上がって行くことを日課にしたそうです。几帳面な彼女の性格からして、その行動は、電車の時刻表のように、定刻通りに刻まれていったかもしれません。
ここまで来る途中には、ディスカウントの店が通りに面して集まり、拡声器からの呼び込みの声ががなり立てられています。
109を挿んで路は二つに分かれ、右に行けば文化村通りとなり、その先には美術館を備えたBunkamuraがあり、左に行けば道玄坂です。私は泰子が辿ったであろう左の坂を上ることにしました。
確かにそれは坂で、思っていた以上の勾配が足の裏からも感じられます。もしもこの路がマラソン・コースになっていたら、「心臓破りの丘」といわれるかもしれない、などとつまらないことを考えながら坂を上っていきました。
坂を上りきった辺りの前方右側の辺りが、泰子の“仕事場”となった渋谷区円山町のはずです。
私は根っからの方向音痴でf(^_^)、右に折れる小路をうっかり見落としてしまい、それよりもさらに先へと進んでしまいました。
標識を見ると、神泉町とあるではありませんか。慌てて引き返し、元来た路を辿り、今度は間違いなく本来折れるべき小路を見つけることができました。そこからさらに路を折れていくと、目的の場所の“匂い”が漂ってきました。
思った通り、泰子が毎夜佇んだとされる道玄坂地蔵はそこにありました。撮影したときには全く気づきませんでしたが、左下には小さな花が花びらをつけています。
石段を上がると、本尊の右手には立て札があり、地蔵尊の謂われについての文言が記されています。
いよいよ御本尊との対面の時を迎えました。下からそのお顔を拝見すると、その半眼の眼差しも手伝い、全ての行いや出来事を達見しているようにも見えます。いわれているように、そのお顔の上唇には紅が塗られているのでしょうか。確かにそこだけがポッと浮き出しているように見え、生身の女の色香が漂ってくるようでもあります。
このお地蔵さんの前に雨の日も立ち続ける泰子に、その背後から優しい眼差しを注いでいたのではないかと思い、胸の奥が少し熱くなりました。
地蔵尊を後にさっき来た路を帰ると、向こうから車が入ってきました。路は車1台通るのがやっとの幅で、路の脇に身体を避け、車をやり過ごしました。深夜の暗い夜路、車のヘッドライトに照らされた泰子が身体を反らしている姿が思い浮かびました。彼女の身体からは、香水の香りがしたでしょうか。それとも、アルコールの臭いでしょうか。
道玄坂の広い通りに出ると、何事も無げに車が行き交っていました。泰子が殺害された“現場”へも行こうと思いましたが、気が進まず、そのまま渋谷駅の方面に坂を下ることにしました。
小林氏の紀行集に戻って、その書評に目をやると、その最後の方に次のような小林氏の談話が載っています。
(最近の犯罪からは)他者との接点を拒絶して初めて成り立つ安全圏へ逃げ込む姿勢(が見えてくる)。
最近の若手写真家の作品の中には、彼らの身近な人々だけを被写体とした写真が目立ったりします。それは見方を変えれば、彼らがよく知っているものだけを被写体に選んでいることになり、それに対しても小林氏は不満のようで、「(彼らの作品は)予測可能で、それこそ箱庭的。写真は未知な、リアルなものと対峙するためにある」といい切っています。
先ほどの話でいえば、犯罪者自身が地続きの感覚を失ったところで罪を犯し、それを伝えるマスメディアも同じく現実から遊離した感覚で取材・報道している、といえなくもありません。
では一体、それを受け取る視聴者の側はどんな現実を実感できているのか、と考え出すと混乱しそうですので、今日のところはこの辺までにしておこうと思いますf(^_^)
次の機会には、今回訪れるのが憚られた殺害現場へも足を運んでみよう、と思ってはいますが_。