今日は、東電OL殺人事件についての続編ということで、当事件の被害者である渡邉泰子さんの内面に少しでも迫るような書き方をしてみたいと思います。
ただ、今回の本『東電OL症候群(シンドローム)』(佐野眞一著/新潮社/1600円)を読み終わった今も、彼女の心の内は真っ暗な闇のように眼前に広がり、他人の安易な侵入を拒んでいるように思われます。
ましてや、今回の続編の元になる著作『東電OL殺人事件』(佐野眞一著/新潮社/1800円)さえもまだ未読の身の私に、彼女の心の深層に迫れるはずもありません。が、これを書きながら少しでも闇のそこここに明かりを灯せたら、と思っているところです。
まずの取っかかりとして、泰子自身によって書かれた文章が当書(『東電OL症候群』)に載っていますので、それの抜粋から紹介してみたいと思います。
アメリカの無謀な人質救出作戦に、全世界があぜんとする中、当のアメリカ国民の中には、この強攻策を是認している人が多いという。そこには、国際法上から、また、成功の可能性から、作戦自体は愚挙とはみなさないという考え方があるともいわれる。だが、行為の原因の正当性を主張することは、今回のように、その影響が極めて重要な場合、妥当であるとは考えられない。少なくとも、今世紀のプラグマティズムの母体であるアメリカで、こうした議論がなされているということは、判断が、いまや感情的なものになっていることを示すものではないだろうか。効果の有用性のみをもって、真理の価値を判断するという、プラグマティズムの思想的基礎が、正しいか否かは議論の余地がある。だが、抽象的論議をする場合は別としても、効果の有用性が価値として評価されるなら、それは、アメリカが最もよく理解しているはずである。それにもかかわらず、各国に対して、今回の作戦を批判する資格はないというアメリカ国民は、もはや、いらだちから理性的判断を失っている、としかいえないのではないか。日本や西欧諸国が、これを戦争行為と決めつけるのは避けるとしても、軽々しく、「人道的見地から、心情的には理解できる」という態度をとってよいかどうかは疑問である。
いかがですか? これが生前彼女の手によって綴られた文章です。
この一文は、昭和55(1980)年、東京電力に入社後間もない同年5月5日付けの朝日新聞「声」の欄に載った「理性を失った米国民の判断」という投稿です。ここに書かれている内容は、1980年4月に起こったアメリカ海兵隊によるイランのアメリカ大使館人質救出作戦(イランアメリカ大使館人質事件)についての私見のようです。
大学卒業間もない女性によって書かれたとは思えない理論的な文章で、改めて泰子の聡明さが窺われると思います。
泰子の内面を考えるとき、真っ先に考えなくてはならないのは彼女の父親に対する感情ではないかと思います。
娘の場合、とかく年頃になると父親をある意味嫌悪する感情が生じるのが普通のようですが、泰子にはそれが全く見られないばかりか、逆に父親は絶対的な尊敬の存在であったようです。
聞くところによりますと、エレクトラ・コンプレックスというのがあるそうです。
これは、田中真紀子現外務大臣(2002年現在)と父・故田中角栄との関係を論じた文章で目にした単語だったと記憶していますが、ギリシャ神話に由来するそうで「娘の父親に対する無意識の強い恋愛感情」を指しているそうです。
もしかしたら、泰子も父に対して似たような感情を無意識のうちに宿していたかもしれません。
現に、泰子自身による父親評は「東大出といってもガリ勉タイプではなく、部下の面倒見がいい本当にステキな人」と飛びきりの誉めようをしています。
その父親は東電に勤務し、重役昇進を目前に他界しています。泰子が大学2年の時だったといいます。泰子は人生に2度ほど極度の拒食状態に陥ったということですが、その内の1回はこの父の死の際に発生しています(もう1度は、東電同期入社したライバル社員とのエリート競争に敗れたとき)。それは父親への思いの深さを物語っているようです。
その後、昭和55年(1980)、泰子は慶応義塾大学経済学部を優秀な成績で卒業すると、尊敬した父が生前在籍した東電への入社を果たします。
大学時代、ブラウスやシャツは一番上のボタンまできっちりととめるという見かけからして超真面目タイプだった泰子は、東電入社に当たり「亡き父の名を汚さぬよう頑張ります」との誓いまで立てていたようで、東電に対する並々ならぬ思いがそこからは感じられます。
泰子が入社した当時の東電の上司に大平明という人物がいます。
その大平氏というのは、1980年当時、内閣総理大臣を務めていた大平正芳の三男に当たる男性(2001年現在は大正製薬のオーナーの上原家と縁組みし、同社の副社長の任にある)です。
そして、これも一つの因縁とも思えなくもないのですが、泰子が入社して2カ月目の1980年6月、大平正芳総理大臣は現職の任期中に急逝してしまいます。
筆者の佐野氏は、父親を慕ってやまなかった泰子が、ある意味同じ境遇の大平明にある種の感情を抱いたとしても不思議ではない、と記述し、それとなく何かを臭わせてもいます。が、その点に関する真相のほどは今となってはわかりません。
取材に対する東電側のガードが厳しいのか、東電当時の同僚の泰子評は残念ながら当書ではほとんど見当たりません。
泰子の転機は、入社8年後の1988年8月に訪れました。あとで考えますと、転機というにはあまりにも大きな転機で、これを境に泰子の人生は大きく傾き始めます。
今も書きましたように、泰子は同年8月、東電から出向を命じられます。派遣された先は「日本リサーチ総合研究所」というシンクタンクです。
通常、東電のエリート・コースとしては電力中央研究所やNIRA(総合研究開発機構)、エネルギー総合工学研究所などに出向するのが通例で、三流のシンクタンクと見られていた日本リサーチ総研への出向は後にも先にも泰子ただ一人しかいないようです。
もしかしたら、泰子は東電内で厄介者扱いされ、体よくそちらへ回された、ととれなくもありません。「亡き父の名を汚さぬよう頑張ります」との決意を胸に入社した泰子にとり、この左遷扱いは彼女の心にどんな影を落としたでしょうか。
東電とは違い、この出向先の研究所で泰子と仕事を一緒にした人たちの証言は幸いにも得られています。そしてそれは、人間臭い泰子像を覗かせることになり、私の興味を強く引きました。
泰子と共同で論文作成の作業に当たったという男性(2001年現在、青森大学助教授)によれば、「化粧もほとんどしていなかったし、生気も喜怒哀楽の感情もなかった。本当に生きているのかという感じ」に映っていたようです。
出向して間もなく、社内旅行で東京ディズニーランドに行った際、同園近くのホテルで撮った写真があるそうで、4、5人の女性の同僚と写真に収まる泰子は、白のブラウスに黒のジャンパー・スカートというまるで学生のように地味な服装だそうです。
そしてまたその写真は、髪も程々に長く、顔はそれなりにふっくらとしている泰子の姿を留め、そこにまだ、健康な泰子が存在していたことを証明しているかのようでもあります。
当研究所の向かいのデスクでアルバイトの仕事をしていたという女性の証言はさらに生の泰子像を私たちの前に結んで見せてくれます。
以下は彼女が当時を振り返った言葉です。
プライドばかり強くて、上司からすれば面倒な人だったと思います。経歴は確かにエリートですが、協調性というものが全くない。とにかく、コミュニケーション能力というものがまるきりないのです。(食は異常に細く)昼食といっても、クッキー1枚程度でした。彼女は小さなコーヒーカップにインスタントコーヒーを3杯も入れて、お湯をほんのちょっと入れ、砂糖を気持ち悪くなるほどいれたトルキッシュ・コーヒーのようなドロドロのコーヒーをいつも飲んでいました。夜、家では何を食べるのと聞くと、おサシミを一切れか二切れくらい、といっていました。
泰子は食事で摂れない栄養を補う目的でか、職場の机の引き出しに大量のビタミン剤を常に入れておき、毎日パカパカ飲んでいたようです。
泰子は当研究所では原稿を書き、印刷所から上がってきたゲラを校正する仕事に当たっていたようですが、泰子は、彼女の性格を反映してか、独り完璧な推敲を繰り返し、報告書はいつまでたっても出来上がらないことが多かったようです。
泰子はこの研究所時代、NHKの経済討論番組へ出演しているそうですから、あるいは生前の彼女の貴重な姿がNHKの資料室の奥に今も眠っているかもしれません。
泰子の趣味などについての記述はほとんど見られませんが、その中で私の関心を引いたのは彼女のお気に入りの曲について書かれたくだりです。大学時代、ゼミの卒業旅行の帰りのカーステレオから当時流行していたある曲が流れ、泰子は「この曲、いいわね」と漏らしたそうです。
それは、オフコースの『愛を止めないで』(「YouTube>オフコース 愛を止めないで」)という曲です。
やさしくしないで 君はあれから
新しい別れを恐れている
ぼくが君の心の扉を叩いてる
君のこころが そっとそっと揺れ始めてる
愛を止めないで そこから逃げないで
甘い夜は ひとりでいないで_・・
泰子は1991年8月に再び東電に戻ることになるわけですが、ちょうどそれと期を同じくする頃、渋谷円山町界隈での売春生活も始まることになるようです。
身なりも、出向直後からは一変し、たとえば真っ青なブラウスに革のスーツといういでたちに変貌していました。ほとんど化粧気のなかった彼女の顔には真っ青なアイシャドーも塗られています。
ただ、泰子はその生き方と同様に手先も不器用だったのか、化粧はお世辞にも上手とはいえないような腕前だったようです。私はそんな記述の部分を読むことで、余計に彼女が愛おしく思えてしまうのです。
当書に書かれているある未確認情報によれば、1989年頃から、渋谷センター街にあったという高級クラブ「バラベル」で働いていた可能性もあるそうです。ただ、現在その店は既になく、確認は取れてはいません。
もしその情報が確かであるなら、その時期は出向後2年目に当たり、年齢的にも30歳前後ということになります。女性にとって30歳の区切りは人生の大きな節目と受け取られ、大きく心が揺れ動いたであろうことも想像できます。現に、泰子自身の以下のような言葉が同僚の記憶の中に残っています。
東電で総合職として残っている女性は、もう私しかいない。医者と結婚してアメリカのボストンに住んでいる人もいる。もう私も年だから。
それまでの自分の生き方を振り返り、その時期、これまでになかった感情が突如彼女の心の中に芽生え始めたのかもしれません。
ここまで、父親との関係については書いてきましたが、家庭内での母親との関係は決して良好ではなかったようです。泰子は他人に対して身内の話をほとんどといっていいほどしなかったようですが、同僚の女性は、ある時泰子の口から「あの人(=母親のこと)、私が毎日切り抜いていた日本経済新聞のスクラップを捨てちゃったの。ホントにバカなんだから」と吐き捨てられた言葉を憶えています。
父親の死後の一時期、専業主婦の母とまだ幼かった妹を抱え、泰子が一家の大黒柱的な使命感を抱いて仕事をしていた事実があるようです。そうした状況下では、浮ついた恋愛をする余裕も持てなかったかもしれない、と今何となく思いました。
泰子が生前、夜毎彷徨った渋谷の街に「時々、馬糞のような臭いを感じることがある」と筆者の佐野氏は書いています。
現代風に“ビットバレー”(渋谷の「渋」の英訳であるビターにコンピュータの情報量を表すビットを掛け合わせた造語に渋谷の「谷」の英訳のバレーをくっつけたいい方)ともいわれるこの街は、その地名が表しているように、「代々木、千駄ヶ谷、幡ヶ谷、駒場の四つの台地に囲まれ、北西部で標高40メートル、南東部で25メートルほどのゆるい傾きを持つすり鉢状の街」として形成されています。
そんな街の性格上、見かけ上の煌びやかさとは不似合いに、たとえばビル群から吐き出されたトイレなどの悪臭が、“谷底”に溜まりやすくなるのだろうというわけです。佐野氏は「公衆便所の便器の底には必ず緑やピンクの消臭玉があるところ」が渋谷の街の基本的なイメージであるとも書いています。
そういえば、泰子の遺体が横たわっていた、喜寿荘101号室で発見された使用済みのコンドームが発見された便器にも、消臭用のブルーレットが備え付けられていたことに気づきました。
ここまで字数を費やしながら、結局「なぜ泰子が売春をするようになったか」については言及できずに終わりました。私はこの後『東電OL殺人事件』にも目を通したいと思っています。それを読み終わり、何かしらの“啓示”が得られたとき、またこの続きを書ければと思うだけです。
本サイトのトップページには、私が個人的に「この番組は要チェック!」とばかりに「◎」をつける感じでご紹介する「私のTV指定席」がありますが、今日は特に、特にお薦め、といいますか、個人的に注目してしまった番組があります。
それは、「課外授業ようこそ先輩」(NHK総合/日曜18:10~18:45)です。なぜかといえば、私の大好きな写真家である“アラーキー”こと荒木経惟が先生として登場するからです。
彼は確か、東京でも唯一残っている都電・都電荒川線が通っていることでも知られます台東区三ノ輪で生まれ育ったと記憶していますから、その地元の小学校を訪れるのでしょうか。
アラーキーは常に人をけむに巻くような行動を取っていますが、その実、性格は非常にシャイではないか、と個人的には推察しています。そんな荒木少年は、小学校の頃はどんな感じの子供だったのでしょう。
先生ぶりとともに、そんな子供時代の話も聞けるのでは、と楽しみにしているところです。