世は卒業シーズンです。
で、この時期になると決まって新聞などのマスメディアを賑わす問題があります。それは、卒業式での国旗・国家ボイコット問題、、、国家をボイコットしてはいけませんねf(^_^;) 国家でなくて国歌でした。「国旗・国歌ボイコット問題」です。
あれは2年前になりますか。埼玉県の所沢高校でのこの問題が当時のマスメディアを賑わしたことがありました。
それにしても何なんでしょうね、一連の“騒動”というのは。
まず初めに私の立場をいえば、特別に国旗を崇め奉るつもりは毛頭ありませんし、国歌である「君が代」の歌詞についての知識も持ち合わせていません。ただ、だからといって、それをボイコットしようという意識もありません。
今現在私は、国旗を掲揚するような場や、国歌を斉唱するような場には全く関係のない環境にいるので何ですが、もしもそのような場に居合わせることになれば、それなりにその場に馴染んだ行動を採るだろうと思います。国旗や国歌に特別な思い入れもない代わりに、別段忌み嫌う理由も持ち合わせていないからです。
私が一連の報道を見ていて一番腑に落ちないのは、「全員でボイコット」という点です。
今日のある新聞にも、ある県の例が載っています。
その記事によりますと、8日に行われたその県にある高校の卒業式では、開会式前の国歌斉唱を卒業生317人全員がボイコットしたそうです。さらに記事には、「君が代」が式場内に流れた際その場にいた生徒は、式の準備担当者である1、2年生15人ほどで、その内起立して歌ったのは5、6人だった、とも書かれています。また、卒業生の父母も約150人が席についていたものの、起立したのは数人だけにとどまったそうです。
ぶっちゃけた話、私は「一糸まとわぬ団体行動」だったら許せるかもしれませんが(^_^;、、、「一糸乱れぬ団体行動」というのは大の苦手です。キモチワルイとさえ思います。でも、でもですよ。上に挙げた例というのは、逆の意味での「キモチワルイ団体行動」に近くはありませんか、ね?
同じボイコットするのでも、どうして「全員でボイコット」でなければならないのでしょう。全く理解できません。
個人個人が「オレは君が代なんて大嫌い!」とか「日の丸? 描きやすくていいよね」とか「日の丸ってオリンピックやサッカーの応援の時に振る応援旗のことじゃん? 違ったっけ~?」などと勝手にいうのは一向に構わないと私は思います。
でもそれには大前提があります。それは、あくまでも個人のレベルで考え、個人のレベルで行動する、ということです。
そうであるべきなのに、今回の例にしても「全員でボイコット」しています。さらには、判断能力が備わっているはずの保護者までがそれに加わっています。個人レベルの考え行動の結果の集積とは到底考えにくい事態です。
勝手に想像するに、そこには“ある力”が加わっているのであろう、と推測されます。
そうした“教育”を受けた生徒というのは、多分システムとしての会社の中などでは従順に命令を受け入れることのできる企業戦士としては有能かもしれません。自分の考えは二の次で、“組織”の命令には忠実なのですから。もしかしたら、自衛隊に入隊しても上手くやっていけるかな? というのは、ちょっとしたジョークですがf(^_^;)
ここで唐突に、ピアニストのフジ子・ヘミングのことを思い出してしまいました。
彼女の日常を描いたNHKのドキュメンタリー『フジコ ~あるピアニストの軌跡~』の中で、彼女が次のようなことをいっていたのを思いだしました。
私には国家なんて概念はないのよ。
彼女は、確か、スウェーデン人の父と日本人の母の間に生まれています。父は早くに彼女と彼女の母の元を去り、さらにまた、そこに戦争という条件も絡み、国籍の問題で悩み苦しめられた経験を持つようです。そうした彼女の言葉であるだけに、そこには説得力があるのです。偏向した教師に植え付けられた“教育”の結果などではないのです。いってみれば、自らの実体験に裏打ちされた“思想”です。
しかし、だからといって、彼女は「皆さんも一緒に国家を否定しましょう!」などとは声高にいわないのです。独り静かに行動を起こすのみです。
もし思想というものを人が持つのだとしたら、彼女のように持つべきだと思います。決して他者から強制的に“教育”されるべきものではないのです。そういのは「キモチワルイ」だけですもん。