私は昨日、美術展をひとつ見てきました。
その昨日の朝、出かけ前に私の頭にはふたつの美術展がありました。そしてほぼ想像通り、最初に向かった美術展を見ることは叶わず、ふたつ目の美術展を見ました。
見るのを諦めたのは、本日まで東京・竹橋の東京国立近代美術館で開催されていた「ゴッホ展 孤高の画家の原風景」です。
しかし、この美術展については、会場に着く前から、見られるか見られないか半々の気持ちでした。というのも、数日前に、2時間待ちの行列ができていると新聞にあったのを見ていたからです。
会場へ着くと、2時間待ちのお知らせがあり、道路の向こう側に大勢の人が列を作って並んでいるのが見えました。私は諦め、近代美術館をあとにしました。
次に向かったのは、同じ地下鉄東西線沿線にある東京都現代美術館です。こちらは、「ゴッホ展」が見られない場合を想定して予定に入れておいた美術展「ルオー展」(2005年4月16日~6月26日)が開かれています。
近代美術館は地下鉄の駅からすぐのところにありますが、現代美術館は結構な距離を歩かなければなりません。同美術館へ行く方法はほかにもありますが、私は東西線の木場駅から向かうので、片道15分ほど歩くことになります。
会場に着くと、「ゴッホ展」とは違い、週末であるのにもとても空いています。
正確に書いておきますと、同美術館では並行していくつかの企画展が行われており、現在開催中の「ハウルの動く城・大サーカス展」(2005年4月27日~8月21日)の方は、それなりに賑わっているようです。
ジョルジュ・ルオー(1871~1958)という画家は、私が大型連休中に見て、本コーナーで書いたジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593~1652)と同じように、あるいはそれ以上に、日本では一般的な馴染みが薄いといえるかもしれません。
そういう私自身も、大好きなレンブラント(1606~1669)に比べれば遥かに馴染みの薄い画家のひとりです。ただ、彼の作品を一度でも見れば、強く記憶に残ると思います。それほど、他の画家が描く作品とは異なっており、視覚的には強烈なものがあります。
一言でいえば、それは油絵具を盛り上げた厚いマチエール(絵肌)です。私もそれに惹かれ、過去に画集を1冊買い求めたはずです。
そんなわけで、私は今回初めて実物を、顔を近づけてじっくり鑑賞しました。
しかし、ルオー作品を鑑賞する場合、マチエールにばかり目を奪われていると、彼が本当に表現したかったものを見落としかねません。彼の厚いマチエールは、彼が訴えたい心の内にあるエネルギーの表れなのであり、その結果として生まれたマチエールなのでしょうから。つまりは、これでもかこれでもかと絵具を塗り込めることで、ようやくにして自分の内側で燃え滾(たぎ)るエネルギーの炎を鎮めることができたのでしょう。
いえ、これは私の勝手な解釈です。
それはともかく、このルオーに関して書かれた1枚の新聞の切り抜きが、今、私の手元にあります。2004年4月16日付日経新聞のコラム「歌人たちの西洋美術 十選」の8回目で、歌人、大西民子(1924~1994)の一篇が紹介されています。
涙噴(ふ)くばかりに翳(
私は不勉強なもので、この大西という歌人を存じ上げないのですが、彼女は「1964年、10年間帰らなかった夫と協議離婚」されたといいます。そして、その時に詠まれた多くの歌の一つが上で紹介されている歌ということになります。
ルオーがこれ以上ないほど絵具を厚く塗り込めて描いた道化師(少女のようにも見えます)は目を閉じ、自分の内面をじっと見据えているようです。
大西は次のように書いています。
一番好きなのは誰かと問われれば、多分ジョルジュ・ルオーと答えるだろう。ルオーのピエロの像を見ていると、いつでも涙が噴出しそうになる。
昨日見てきた「ルオー展」に話を戻します。
どの展示室だったか、写実的に描かれたギュスターヴ・モロー(1826~1898)の肖像画を見て思い出しました。そうだ。ルオーはモローの門下生だった、と。
モローが生きた時代は、印象派絵画がもてはやされました。彼らは、光溢れる戸外へ飛び出して描き、彼らの描く作品が新しい絵画と評されました。
そんな彼らに背を向けるように、モローは暗い室内に籠り、幻想的な絵画ばかり描いたため、時代遅れと烙印を押されかねない状況にありました。
それでもモローは己のスタイルを変えようとはしませんでした。一日のほとんどを屋内で過ごします。加えて、彼は生涯独身で、母親とふたりの時間を長く持ったため、マザコンとか女性嫌いなどといった噂を立てられ、精神的には随分と辛かったようです。
しかし、こと芸術においては、実に解放された考え方を持った人物だったのでしょう。
自分とは全く作風の異なるフォーヴィスム(fauvisme:20世紀初頭、フランスで起こった革新的な絵画運動。原色の対比と大胆な筆致による形態の単純化を特徴とする。マチス、ルオー、デュフィ、ドラン、ブラマンクらがその中心。野獣派。野獣主義=広辞苑)の可能性にいち早く気がつき、その中のひとりにルオーもいたのです。
後年、モローは門下生たちに次のような言葉を残したといわれています。
私は、君たちが渡っていく橋である
モローがいう「橋」を渡ったルオーは、一見、作風は違うように見えるものの、かつての「恩師」の精神はちきんと受け継ぎました。それを端的に解説してくれているのが会場で手渡された鑑賞ガイド「ルオー絵画の登場人物たち」(著者は薮前知子氏〔1974~〕)で、その最終ページには次のように綴られています。
キリストが人の子として肉体をこの世に受けたように、ルオーにとって絵画とは、信仰の物質的な存在としてのあらわれを意味していました。絵画表現の物質感に強いこだわりを示すのも、この理由からです。精神という本来目に見えないものが、形あるものとしてあらわれる。このことに対する強い信念は、外見を描くことからその内面を掘り当てるという、ここに登場した人々すべてに対する画家の態度にもつながっていくのです。
モローの残した言葉に「私は目に見えるものを信じない」というのがあります。
それが上の解説の「精神という本来目に見えないものが形あるものとしてあらわれる」に見事に符合しているように私には思えるのですが、いかがでしょうか。
思えば、モローは最愛の恋人・アレクサンドリーヌ・デュルーに先立たれたのち、数年絵筆を握る気力を完全に失い、ようやく回復してのちも、それまでの緻密な作風から一変したように、荒々しいタッチの未完成とも思える作品を残してこの世を去っています。
とここまでいろいろと書いてきたわけですが、今回の美術展は展示された作品の数が豊富です。いくら見ても終わらないのでは、と思うほどにです。
それは、描いても描いても描き切れないほどのエネルギーをルオーが持っていたことの証でしょう。