前回の本コーナーは、生誕120年を記念するように、映画監督・小津安二郎の代表作が衛星放送で放送ラッシュとなっていると書き、小津の誕生日であり命日でもある今月12日に、NHK BSで放送された小津の代表作、『東京物語』(1953)について書きました。
その更新では、粗筋もほとんど書かず、撮影当時49歳だった笠智衆(1904~1993)が、60歳過ぎの老人を見事に演じたことなどを書きました。
本更新では、『東京物語』に限らず、小津作品に特徴的な映像表現と、巧みな効果音の表現について書くことにします。
小津監督について書かれたネットの事典ウィキペディアに、「180度破り」という項目があり、興味深く読みました。
小津の映像といえば、多くの人が思い浮かべるように、低い位置に固定した安定したカメラポジションが特徴的です。無暗にカメラを振るようなことはまずありません。
以前何かで読んだ記述によれば、小津は、50ミリの焦点距離のレンズを好んで使ったということです。私も50ミリのレンズが好きで、このレンズばかり使って、私の場合は写真を撮影します。
ただ、同じ35ミリといっても、映画の場合はスチルの場合と違い、35ミリのフィルムを縦に移動させて連続撮影されます。
そのため、横に移動させて撮影する35ミリのスチル用フィルムと違い、映画のフィルムの35ミリは、スチルの1コマ分に2コマが露光されます。
ですから、撮影される1コマのサイズはスチルの半分になります。
今は、商業映画もデジタルで記録されることが多くなり、フィルムの時代の「常識」は通用しなくなっているかもしれません。
ともあれ、小津は、50ミリのレンズをフィルムのシネマカメラにつけ、三脚にしっかりと固定し、安定した絵作りをしています。
作品の中で、笠智衆が演じる周吉が、原節子(1920~2015)によって演じられる紀子と面と向かって会話をするシーンがあります。
そのようなシーンを往年のハリウッドで撮影する場合は、「180度ルール」に則って撮影されるそうです。
周吉と紀子が面と向かっているシーンでは、ふたりの視線がまっすぐの線で結べます。カメラは、その線のこちら側に設置し、交互に撮影することで、ふたりが会話するシーンを自然に表現できるそうです。
ふたりを結んだ線の向こう側にカメラを設置するのは、「180度ルール」を破ることになります。そのような撮り方をすると、作品を見る観客が混乱してしまうからです。
この「ルール」を、小津作品では破ることがある、というわけです。
私も、『東京物語』を見て、俳優の視線が気になりました。
二人が面と向かって話すシーンでは、それぞれの人間を、ほぼ真正面から撮影しています。ぼんやり作品を見ていると、それぞれの人間が、カメラのレンズ見ているように感じるでしょう。
しかし、注意深く見ると、俳優はカメラのレンズからわずかにずれたところを見て演技をしています。
「180度ルール」云々を抜きにしても、俳優がカメラを見る演技は、特別な意図がない限り、不自然になるからです。そのことについては、本コーナーで書いたことがあります。
映画やドラマのカメラは、そこで展開される話に登場する人物には存在しないものとされます。存在しないとされているカメラを俳優が直に見るのは、あってはならないことです。
撮影するカメラは、あくまでも黒子に徹しなければなりません。そこで起きていることを記録させてもらうつもりで。
小津は映像表現の文法を理解していますが、それに囚われ過ぎないことを意識したようです。
たとえば、紀子と周吉、その隣りに妻のとみが座って話すシーンがあります。この場合は、紀子の視線に注意が必要です。
その人物をほぼ真正面から撮影する場合は、カメラを演じる俳優の正面近くに据えます。ということは、話をする相手の俳優がそこにいない状態で撮影しなければならなくなります。
作品を見ると、いかにも面と向かって会話をするように見えますが、面と向かう人間の場面を別々に撮影しなければ、俳優を正面から狙うカットが撮れないからです。
演じる俳優の体の向きによって、視線は異なります。ましてや、紀子の正面に周吉ととみが少し離れて座る想定では、紀子の視線の扱いが難しくなります。
その難しさも含めて小津は映像の文法に囚われ過ぎず、人物を真正面近くから撮って表現したい欲求を持っていたのでしょう。
今回、『東京物語』を見ていて、小津が巧みな音響効果を狙っていることを知りました。
たとえば、周吉ととみが、東京に暮らす長男と長女に、半ば厄介払いされる形で、熱海の温泉宿で一夜を過ごすシーンがあります。
その宿の客は、夜が深まっても騒いで遊ぶため、夜の早い時間に床についたふたりは、なかなか寝付くことができません。
それを、電気を消した部屋で、ふたりが布団に仰向けになっている絵で表現しています。その映像に、アコーディオンの演奏で歌う艶歌師の歌声を、うるさくかぶせています。
余計な説明をしなくても、周りの音がうるさくて、ふたりが寝付けないことを観客にわからせます。
ほかにも、遠くを走る蒸気機関車の音などが、効果音として上手に使われています。
小学校で教員をする周吉の次女が、教室の窓から、蒸気機関車に牽かれる列車が通過する様子を眺めるシーンがあります。その列車に、東京へ戻る紀子が乗っている設定です。
同じシチュエーションが、山田洋次監督(1931~)の『男はつらいよ』にあったことを思い出します。
私の記憶が正しいか自信がありませんが、栗原小巻(1945~)が式根島にある小学校で教員をする『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』(1985)ではなかったかと思います。
映画は、さまざまな要素を組み合わせて作る総合表現です。観客に気づかせずに、巧みな工夫が凝らされています
観客は難しいことは考えず、目の前で展開される話にのめり込んでいればいいことです。