今日の朝日新聞に、将棋棋士の先崎学九段(1970~)が寄稿された文章が載っています。将棋界で同期の羽生善治九段(1970~)への思いをくだけた文章にしています。
羽生九段を先崎九段は「羽生君」と書いています。新聞に載せるための文章で羽生九段を「羽生君」と書けるのは先崎九段を除いていない(?)ではないかと思います。
先崎九段もまだ現役ですが、米長邦雄永世棋聖(1943~2012)の弟子として、師匠の家に住み込みをしていましたが、その家を出て(先崎九段はそのことを「おいとまして」と書かれています)四十年なるそうです。
その年月の長さを、先崎九段は「笑っちゃうよね」と書いています。
私は昔から、日曜日の午前にNHk教育(今のEテレ)で放送される「NHK杯テレビ将棋トーナメント」(1951~)の放送を楽しみに見ています。それでいて、私は駒の動かし方も知りませんでした。
それでも、対局者の仕草や、その場の雰囲気のようなものが好きで、毎週欠かさずに見ていたのでした。
私が駒の動かし方を知ったのは、十年ぐらい前ではないかと思います。
将棋棋士というのは、部外者が考える以上に、対局で心身を消耗するようですね。先崎九段は、若い頃は、対局があった日は、頭が冴えてしまい、一睡もできなかった、と書いています。
それが今は、ぐっすり眠れるようになったそうです。
自分と同い年の羽生九段も、昔に比べたら無理が効かないようになったどろうと気遣っています。
先崎九段といえば、昔、本コーナーで取り上げたのを思い出します。何かに書かれていた文章を基に書きましたが、小学生の頃の先崎九段は誰よりも強く、天才少年のように扱われていたようです。
その頃のことでしょう。先崎九段が初めて羽生九段に会った時のことが書かれています。ふたりが会ったのは、デパートで開かれた将棋まつりだそうです。
そこで、先崎九段が羽生九段と対局する場が設けられます。その対極の結果は書かれていませんが、羽生九段は「横歩取り」という戦法を採用したそうです。そのあと、取ったばかりの角を盤上に物凄い勢いで打ってきた、と書いています。
当時の先崎九段には、それが意外なことだった(?)のでしょうか。
対局のあと、羽生九段が先崎九段に話したことも印象深かったようで、次のように書いています。
先崎九段のエピソードで印象に残っていることがあります。昔は今よりもNHK杯の解説をされていましたが、大盤を使って解説するのを苦手にされているというようなことでした。
理由は、現局面から駒を動かして解説したあと、現局面に駒を戻すのがわからなくなるから(?)というようなことではなかったか、と記憶します。
同じようなことは、先崎九段と同じ時期に米長永世棋聖の家で内弟子をした林葉直子元女流棋士(1968~)にもあったように記憶します。
それだから、林葉元女流棋士は、自分では駒を動かさず、聴き手のアナウンサーに駒を動かしてもらったというような話でした。
これは偶然かもしれませんが、もしかしたら、米長永世棋聖は、研究将棋よりも、天性の才能で指す棋士が好みだった(?)のかもしれません。
子供の頃の先崎九段は、羽生九段が研究熱心だったことには驚きながら、先崎九段は、当時は定石も何も知らず、今もそれは同じで、そのような指し方が嫌いと書いています。
今はAIを使って隅々まで研究が進んでいるようです。ということは、先崎九段にとっては苦手な棋界といえなくもありません(?)。
NHK杯の放送を見ていても、中堅や若手は、途中まではもの凄い速さで駒を進めます。解説を聴いていても、研究されていることがわかります。
昔のNHK杯は、はじめの段階から、一手ごとに棋士が考えていたように記憶します。
今度の日曜日(19日)には、「NHK杯」の決勝があります。決勝に駒を進めたのは、藤井聡太竜王(2002~)と佐々木勇気八段(1994~)です。
ふたりとも20代で、藤井竜王はまだ二十歳です。棋界の状況が昔と違うのは致し方ないことでしょう。
羽生九段は藤井竜王が持つ「王将」に挑戦をしました。それを見た先崎九段は、「自分の子供のような年齢の相手に、真正面からぶつかってゆく姿はとてつもなくカッコ良かった」と書き、羽生九段という存在があったことで、自分も頑張ってこれたと書いています。
先崎九段は、寄稿の最後を次のように締めています。
最後に、こんなエッセイを書いても怒らないでね、羽生先生。
最後だけは、「羽生君」でなはく「羽生先生」になっています。