『チップス先生さようなら』という作品があるのを知っている人は少なくないでしょう。1934(昭和9)年に英国の作家、ジェームズ・ヒルトン(1900~1954)が発表した作品の邦題です。
日本でこの作品が出版されたときからこの題であったかどうか、私は確認していません。原題は”Goodbye, Mr. Chips”です。
私は小説で本作を読んだことはありません。
本作はこれまでに何度か映像化されていますが、その中で、二本の映画が有名です。
私は、ピーター・オトゥール(1932~2013)がチップス先生を演じた映画作品があることは知っていましたが、これまで、全編を通して見たことがありませんでした。
その、オトゥール版の『チップス先生さようなら』(1969)が今週の木曜日(2日)にNHK BSプレミアムで放送されるのを知り、録画して見ました。
ネットの事典ウィキペディアで小説の本作の内容を確認すると、映画になった作品は、設定をかなり変えているのがわかります。それでも、チップス先生の個性はそのまま引き継ぎ、映像化されている印象です
オトゥール版の『チップス_』はミュージカル仕立てになっています。といっても、イメージするようなミュージカル映画ではなく、ところどころで歌が歌われるような作りです。
映画が始まっても、すぐに話が始まりません。ほかの作品でそのような仕掛けを見たことがありませんが、画面には静止画のような画面が固定され、”OUVERTURE”の文字があります。
日本語に訳せば「序曲」です。
序曲で私がすぐに思い出すのは、ヨハン・シュトラウス2世(1825~1899)のオペレッタ『こうもり』(1874)の序曲ですね。
これから始まる歌劇や喜歌劇の期待感を高めるとともに、まだ席についていない聴衆が、この序曲の間に席につくよう促すような意味合いが、伝統的にはある(?)でしょう。
私が今回、オトゥール版の『チップス_』を見て印象に残ったのは、自由なカメラワークです。誰が撮影監督を務めたのかをウィキペディアでで確認すると、オズワルド・モリス(1915~2014)という人です。
モリスは、映画史に残るような作品で撮影を担当していますね。画家のロートレック(1864~1901)を描いた『赤い風車』(1952)のカメラも彼だったことを認識しました。
本作を見ていて何に自由さを感じたかといえば、高倍率ズームレンズを使ったズームの表現です。
それが、冒頭で早速現れます。
舞台は、英国の郊外にある全寮制のパブリックスクールです。生徒は男子だけで、見たところ、日本の中学生ぐらいの年齢にあたりましょうか。
全員が紺色のブレザーのような制服を着て、外に出る時は、頭頂部が真っ平らで、つばも平らな帽子(何という帽子かわかりません)をかぶります。
『スーダラ節』(1961)を歌う植木等(1927~2007)がかぶっている帽子に似ています。
校内には古めかしい校舎が何棟も立ち並んでいます。その一部分のアップから作品が始まります。そこには、眼鏡をかけたオトゥール演じる教師のアーサー・チッピング、愛称チップス先生がいます。
彼が立っているのは、校舎の脇にある、石の階段を上って、反対側に降り階段がある頂上部分です。チップス先生がひとりずつ生徒を確認し、生徒は帽子をとってチップスに礼をし、反対側の階段を降りていきます。
はじめは何をしている場面なのかわかりませんでした。どうやら毎朝、校舎に入る前に、ひとりずつ点呼を取っている(?)らしいです。
はじめはチップスが画面に大きく映っていますが、だんだんにワイドな画面に変わり、最後は学園全体を広く見せます。これをひとつのカットで見せるのです。
それをどのように撮影したのか、今も確信を持てずにいます。はじめは、望遠から広角にズームしただけだと思いましたが、それであれば、相当のズーム域になります。
移動撮影するにしても、空中を移動することはできません。カメラがワイヤなどで吊るされているようにも見えません。
ヘリコプターを使ったと思われる空撮シーンもあります。そのひとつは、チップスが夏の休暇をを利用し、ひとりでイタリアにあるポンペイの遺跡群を訪ねたときの場面で登場します。
チップスは、ギリシャ語とラテン語を教える教師です。厳格を重んじ、他者からは浮いているような傾向を持ちます。彼はあくまでもマイペースで、中年にさしかかろうという年齢ですが、未だに独身で、もしかしたら、一度も女性と交際したことがなさそうです。
彼は学校の教師を自分の天職と考え、誇りとしています。
その彼が、友人に誘われて、劇場でミュージカルを見ます。友人はモテそうな男性で、そのミュージカルに自分の結婚相手が出演している、といいます。
その実、まだ結婚話は決まっておらず、友人が一方的に結婚を望んでいる女性で、その女性は舞台女優をしていることもあって、男性との交際が盛んで華やかです。
ミュージカルをみたあと、友人がチップスを誘ってレストランに入ります。そこで、お目当ての女優、キャサリンと食事をする約束をしていたのです。
ところが、キャサリンはライフガーズの隊員をする男性と交際中の用で、その男と食事のテーブルにつきます。
友人はキャサリンが入って来たのに気づき、気の進まないチップスを伴ってキャサリンのテーブルに座らせてもらいます。
友人はキャサリンの気を引こうとして、チップスに見たばかりのミュージカルの感想をいわせます。すると、観劇には興味がないチップスは、目の前の女優が演じた役を、別の女優が演じた役と間違えるなど、話がかみ合わず、気まずい空気が流れます。
チップスがひとりで、ポンペイに残る古代の宮殿あとにいると、そこへ偶然、ひとりの女性が現れます。それが、ミュージカルに出演した舞台女優のキャサリンです。
彼女は、たった一度だけ、レストランであったチップスのことを、「ヘンテコな劇評をした人」と憶えていました。彼の頓珍漢な話が功を奏したといえましょう。
キャサリンは、仕事に疲れたため、一緒に来た仲間から離れ、ひとりでポンペイ遺跡をぶらぶらしていたといいます。
チップスが遺跡に非常に詳しいことを知り、案内役を頼みます。
その過程で、古代の宮殿跡へ行きます。その場面で空撮シーンが登場します。
石柱が何本も立ち並ぶような宮殿で、柱と柱の間に立っているふたりを撮影していたカメラが、後退し、宮殿を横に移動しながら全体を映し出したりします。それを1カットで見せるのです。
キャサリンは、「自分は海が嫌いな船長のようなもの」(だったかな?)といい、舞台女優として生きて行くことに嫌気がさしていることを仄めかします。
キャサリンがチップスに会うのは二度目ですが、二度目にして一目惚れしたように、ごくごく短時間で、チップスに心が引かれてしまいます。
一方のチップスといえば、中年間近になっても女性には初心(うぶ)のままです。
休暇から戻ったチップスが、その時のことを同僚に話、「襲われそうになった」といったりします。
オトゥール版の『チップス先生さようなら』を見たことがない人が本作にどのようなイメージを持たれているかわかりませんが、ひと言でいえば、チップスとキャサリンの純愛物語です。
チップスとキャサリンは結婚しますが、チップスはいつも、キャサリンに申し訳ないことをしたと感じています。彼女には華やかな生活が合っているのに、教師の妻にさせてしまったからです。
キャサリンはチップスを一途に信じ、心から愛しています。ふたりでいるだけで幸せで、天国へ行けなくてもいい、などと歌を歌います。
作品中盤には”INTERMISSON”(幕あい)に続けて”ENTRA’CTE”(間奏曲)がしばらく流されます。この時も、序曲のときと同じで、一枚の写真のような映像が画面に映し出されているだけです。
そして、ラストには”Exit”(終幕)が設定されており、終幕の曲を聴きながら、見たばかりの数々のシーンを思い浮かべることになります。
傷ついたキャサリン(ペトゥラ・クラーク〔1932~〕)が、チップスに迷惑をかけないよう、独り、オープンカーに乗って去っていくシーンがあります。
それに気がついたチップスは、慌てふためいてキャサリンのあとを不器用に追いかけます。その慌て様はコミカルです。通りかかったバスに飛び乗り、田園風景の中をどこまで追いかけるのです。
このシーンも確か空撮で、そのあと、”INTERMISSON”(幕あい)となるのでした。