フランスの女優、カトリーヌ・ドヌーヴ(1943~)を若くして世界的に有名にしたフランス映画に『シェルブールの雨傘』(1964)があります。この作品が先週木曜日(15日)に、NHK BSプレミアムで放送されました。
本作を見たことがない人も、ミシェル・ルグラン(1932~2019)が作曲した音楽は聴いたことがある人が多いでしょう。
私も本作は知っており、ルグランの音楽は好きですが、これまで、しみじみ見たことがありませんでした。そこで、今回の放送を機に録画し、見ました。
本作を見たことがない人は、フランス映画らしく、お洒落なラヴストーリーをイメージするかもしれません。私もそんな感覚で見始めました。しかし、見終わった時、釈然としない気分になりました。
登場人物は多くありません。
ドヌーヴは、17歳の設定で、フランスのシェルブール=オクトヴィルにある雨傘店のひとり娘です。名前はジュヌヴィエーヴ・エムリといい、家族は、店を経営する母だけで、父は亡くなっています。
ドヌーヴと恋に落ちるギイ・フーシェは二十歳で、自動車整備の仕事をしています。両親はおらず、彼を育てた伯母と暮らしています。伯母は寝たきりの状態で、マドレーヌという若い女性が、住み込みで介護しています。
1957年11月から、本作が公開される前年の1963年12月までが描かれます。
ジュヌヴィエーヴがギイと付き合っていることを知った母は、娘の恋愛を軽く見て、恋愛ごっこをしているだけだ、と娘に諭そうとします。
本作は実験的な作りになっています。監督と脚本はジャック・ドゥミ(1931~1990)です。
本作はミュージカル仕立てです。本場米国ではミュージカル作品の名作が数多く生まれました。
それと本作が違うのは、ひとつも台詞がないことです。脇役とのちょっとした会話場面も含め、台詞であるべきところが、メロディーにのって歌うように表現されます。
若いふたりの恋愛を描く作品には、困難な状況が必要です。それを乗り越え、ふたりの愛が深まる様を描きたいからです。
本作ではそれを戦争が果たします。ギイは徴用され、二年間、アルジェ戦争(1954~1962)の戦地へ送られます。
若いジュヌヴィエーヴは、ギイと離れ離れになる運命を嘆き悲しみ、ギイの胸に顔を埋(うず)めて、ルグランの有名な楽曲にのせ、はかない想いを伝えます。
ジュヌヴィエーヴの母は、自分がひとり親として必死になって娘を育てたこともあって、娘には、生活が安定した男と一緒になって欲しいと考えています。
付き合っているギイは自動車の整備工で、稼ぎがいいとはいえません。そのギイが戦地へ行って二年も離れて暮らせば、お互いに今の恋を忘れるだろうといい、娘には、もっと条件の良い男に出会い、幸せになってくれることを望みます。
私は本作を全編を通して見たことがなかったため、最終的には、ジュヌヴィエーヴのもとにギイが戦地から戻り、ふたりの愛を育むのだろうと想像していました。
ジュヌヴィエーヴが、ギイが戦地へ行っている間に、目の前に現れた条件の良い男とさっさと結婚してしまったのにはショックを受けました。
結婚相手の男は、口ひげを生やし、一癖ありそうに見えないこともありません。それだから、最後の最後にはどんでん返しが待っているのだろう、と考えてもいました。
ジュヌヴィエーヴは、夫とシェルブールの街を去り、母も連れてパリへ移住したため、シェルブールで開いていた雨傘店も閉じてしまいます。
これでは、『シェルブールの雨傘』というタイトルが空しくなってしまいます。
本作のオープニングは、雨が降る街路を真上から撮り、タイトルバックに、色とりどりの雨傘が行き交い、これから始まる作品に期待を持たせるような作りになっています。
ところが、雨傘が登場するのは、ジュヌヴィエーヴの雨傘店が舞台になるシーンだけで、他のシーンに雨傘が印象的に登場することはありません。
本作のような原案で映画化の企画を持ち込んだら、米国の映画会社であれば、企画が通らないでしょう。
作品を見終えた観客は、カタルシスを味わったりするものですが、本作ではそれが得られにくいように私は考えるからです。
本作を私が手直しするとすれば、ギイの伯母を世話するマドレーヌを相手役にし、彼女の秘めた恋を成就させるような描き方をしてみたいです。
マドレーヌは、ギイの伯母の世話をしながら、ギイを密かに想っています。マドレーヌはその気持ちを態度に出しません。ギイがジュヌヴィエーヴを愛していることを知っているからです。
ドヌーヴが演じたジュヌヴィエーヴは、ひとときの恋を楽しむお洒落な若い女性として登場させ、マドレーヌとの恋を、もっと綿密に描いたら、見終わったあとにカタルシスのようなものが得られたでしょう。
ジュヌヴィエーヴは、ギイの子供をお腹に宿したまま結婚します。その子が誕生し、育つ過程は描かれません。夫婦の間に葛藤がないはずがないですが、それを観客には見せてくれません。
ギイはマドレーヌと結婚し、子宝を得ます。
最後の場面も今ひとつの印象です。
成人になったジュヌヴィエーヴは、雪の降るクリスマスの夜、娘を助手席に乗せて、ギイが経営するガソリンスタンドへ偶然にやって来ます。
それをどんな風に描いているかは、ご覧になって確認してください。
脚本を書いて監督したジャック・ドゥミに、『シェルブールの雨傘』というタイトルに何かしらのこだわりがあったのであれば、最後ぐらいは、雪も降っていることですし、象徴的に雨傘を登場させてもよかったように、私には思えてしまいます。
ドゥミは、撮影所での助監督の経験なしに映画監督になったようなヌーヴェルバーグに位置づけられる監督です。それだから、従来の監督が予定調和的に描くことに反発のようなものを持っていた(?)のかもしれません。
予定調和的に描かれることが多い恋愛映画は、現実にはあり得ないほど幸運が連続し、ハッピーエンドで終わることが多いです。ときにはそれが鼻につき、「そんなにうまくいくわけないだろう」と鼻白むことがないでもありません。
そういった意味では、本作は、現実に生きる人間が選び取った末に得た人生の幸せを描いた、といえなくもありません。
最後に顔を見せてくれたジュヌヴィエーヴが、私には、幸せそうに見えないんですよね。安定した生活が人を幸せにする、とは限らないということでしょうか?