本来であれば、「憲法記念日」であった3日に、20年前のちょうどその日に起こった「あの事件」について書こうと思いました。が、今日にずれ込みました。
その「あの事件」とは、「朝日新聞阪神支局襲撃事件」です。
この事件を取り巻く状況は、非常に多岐にわたっています。私の手に負えるか甚だ自信がありません。そこで、この事件を取材してまとめられた、一橋文哉氏(1954~)の『赤報隊の正体』(新潮社)を足がかりにしようと、今読み直している最中です。
で、全て読み終わってから自分の考えなりを書けばいいのでしょうが、私はせっかちな性格のため、読み進めながら、そのときどきで考えたことを書いていこうと思います。そのため、この事件については、今後、何度となく書くことになるかもしれません。
事件が発生したのは、1987年5月3日。場所は、兵庫県西宮市にある朝日新聞阪神支局2階の編集室。
通常であれば、編集室内には記者の数も多かったのでしょうが(当時、同支局には10名の記者が配属になっていたようです)、その日は大型連休の真っ最中。「憲法記念日」の祝日で、しかも、その年はその日が日曜日で、室内には夜勤の小尻知博記者(1957~1987)、宿直の犬飼兵衛記者(42)、そして、入社3年目で宿直明けの高山顕治記者(25)の3名だけがいました。
時刻は、午後8時過ぎ。直後に起こる事件を予期するものは何もなく、3人はソファでのんびりと過ごしていました。
部屋の窓際に置かれたテレビには、NHKの大河ドラマ『独眼竜 政宗』が映し出されていたようです。
事件が起きたのは午後8時15分頃です。
突如、目出し帽を被った男が独りで、音も立てず、部屋に入ってきます。それに最初に気づいたのは、3人の中で年少の高山記者です。男は、部屋の中をゆっくりと進んできます。
体格は中肉中背。高山記者のその後の話によりますと、男の年齢は20代から30代。初めは気づかなかったものの、事務机の陰から男が移動すると、腰の辺りに銃を構えていることに気がつきます。
次に男に気がついたのは、3人の中で年長の犬飼記者です。
犬飼記者は、「突然、ソファの向こう側に現れた感じたした」と供述しているようです。
次の瞬間、犬養記者は、それまで煙草を挟んでいた右手の指先が吹っ飛びます。犬飼記者は右手、左腕、腹部に負傷を負い、床に倒れ込みます。
そのとき、最後の意識に、男が履く黒っぽい長靴のようなものが目に入ったそうです。
最後まで男に気づかなかったのが小尻記者です。彼は、運が悪いことに、出入り口に背を向けるようにしてソファに腰掛けていたからです。
その彼が、突如鳴り響いた銃声に驚き、体勢を整えようとしたことで、男と対面をする形になってしまいます。ふたりの間隔は1メートル弱しかありませんでした。
2発目の銃弾が、小尻記者に発射されます。
身を伏せていた高山記者の目に映ったのは、体を反転し、両膝を床につき、ソファに突っ伏すように倒れる小尻記者の姿でした。小尻記者の左脇には、大きな穴ができていました。
この間、男はひと言も発せず、2発の銃声だけを残し、ゆったりとした足取りでその場をあとにしたようです。
事件に使われたのは散弾で、アメリカの大手銃器メーカー「レミントン」社製の「ピータース7.5号弾」です。
一般の用途としては、射撃競技や鳥打ちだそうです。弾丸は、「カップ・ワッズ」と呼ばれる直径1センチ、長さ3センチのカプセル状で、カプセル内に散弾粒が約400発収納する仕組みになっています。
犯人の男は、2発の弾を発射しただけで現場をあとにしましたが、2発以上連射できない構造の銃であったため(?)か、事件に使用された銃の特定はされていないようです。
また、現場からは、発射された弾の薬莢は見つかっていないようです。
以上、「赤報隊事件」のひとつ「朝日新聞阪神支局襲撃事件」のあらましを、一橋氏が書かれた書籍を手がかりに、自分なりに、現場で起きたのであろうことをなぞってみました。
この事件により、小尻記者は命を落とされましたが、犬飼記者は命を取り留め、また、高山記者は難を逃れ、ふたりだけが唯一、犯人の男を目撃しています。
警察は、得られた供述を基に、ふた通りの似顔絵を作成します。いずれも目出し帽を被り、目の部分だけに人の面影を覗かせます。2枚の違いは、一方が眼鏡を掛けていることだけで、「切れ長の目」である点は共通しています。
この似顔絵が事件解決の切り札となるのかどうか、です。
命を取り留めた犬飼記者は、その似顔絵にどんな印象を持ったでしょう。一橋氏の本には次のように犬飼記者の感想が記されています。
鋭い目の男だったと思うが、メガネをかけていたかどうかさえ記憶がない。似顔絵の男が犯人に似ているかと言われると、正直言って、自信がない。
実は、この似顔絵には“モデル”がいるらしく、2000年2月のこと、関西で取材に当たっていた一橋氏は、捜査関係者のひとりに、一枚の白黒写真を見せてもらいます。
それは別の事件で逮捕されたときに撮された写真のようです。それに写る男は30代前半。ラフなジャンパー姿で、目つきは鋭いといいます。
テーブルの上に、その写真と例の2枚の似顔絵が並べられた瞬間、一橋氏は思わず「ソックリだ!」と叫んでしまったほど、その写真の男と作成された似顔絵の男が似ていたようです。
“モデル”を使って似顔絵を作成したことが、本事件の捜査に当たった警察内部の事情に絡んできそうです。
その事件を知る人の記憶に残るのは、警察が作成して公開した、ヘルメット姿のモンタージュ写真ではないでしょうか。今でも、この事件を思い出すたび、その写真が反射的に脳裏に浮かぶ(?)でしょう。
しかし、これは今ではよく知られたことですが、あの時作成されたモンタージュ写真にも、実は、“モデル”が存在したことがわかっています。
真犯人を目撃したはずの銀行員たちの記憶が曖昧だったため、警察は、当時目星をつけていた少年に似た風貌を持つ青年の写真を基にして、犯人のモンタージュ写真を作ったといわれています。
同じようなことが、朝日新聞阪神支局襲撃事件における2枚の似顔絵でもいえるのでは、ということです。
一橋氏によれば、警察内部は、証拠を積み上げて犯人へ迫る「刑事警察」と、起こった事件の背後関係を重視し、個々の事件の解明よりも治安維持を優先させる「公安警察」というふたつの勢力があり、それぞれに、捜査方法を主張するようです。
阪神支局事件の捜査では、事件から1年後、捜査の方針を転換していたようです。一橋氏の本には、次のような、警察庁捜査一課長の話の一部が紹介されています。
犯行声明を見ますと、戦後の民主体制に反感を抱いていることが窺われます。『一人一殺』『一殺多生』などのいわゆる右翼的言辞が見られるわけであります。何らかの右翼思想に共鳴する者が、一味に加わっていることが推測されます。そこで、右翼関係者の捜査、あるいは、そのほか本件を敢行しそうな者に対する情報収集の強化をお願いしたいのであります。
この、警察の捜査方針転換について、一橋氏は書きます。「ハッキリ言おう。1988年5月時点で、警察当局が116号事件を思想犯罪と決めつけたのは早計であり、捜査方針に無理があったのである」_と。
真相はどの辺りにあるのか、私にはわかりませんが、ここで私がひとつだけ強調しておきたいのは、事件で最大の被害を受けた朝日新聞が、公安警察手動の捜査方針転換に敏感に対応するかのように(というよりもむしろ、自ら進んで「思想犯説」を堅持?)、襲撃犯人を「思想的背景を持つテロリスト」と決めつけている点です。
未だに犯人の姿形がつかめていないのに、犯行直後からそのように決めつけ、現在もなお、それ以外の犯人像はないとの態度を採り続けています。
果たして、「それこそが唯一絶対の犯人像なのか?」という疑問が私にもあります。
本日は、そもそも「赤報隊(せきほうたい)」とは何か? といったことも書くつもりでしたが、長くなってしまいそうですので、尻切れトンボとなることを承知で、ここまでにし、いずれまた気が向いたら、今回の続編のようなことを書くことにします。