近頃は世の中の動きも非常に速く感じられ、時に心が疲れます。そんな時、私にはいつも繰り返して見ることにしているお気に入りのビデオ・テープがあります。
それを録画したのはもうずいぶん前になります。テープに記された日付を見ると_【1997年6月4日】とあります。たった4年前といったいい方も出来ますが、一方、遙か4年“も”前という見方も出来ないこともありません。
その日にテレビ東京で放送された「ドキュメンタリー・人間劇場」 「のんきに暮らして…82年 たぐちさんの一日」といいます。
私が録画したのはその番組が再放送されたときで、最初の放送は1996年5月22日にあり、その放送によって第34回ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞を受賞しているとのことです。

私がそのビデオを繰り返し見たくなる理由は、何といってもそこに登場する市井の老人・田口さんの生き方そのものにあります。
田口親(たぐち・ちかし)さん。撮影当時82歳です。彼は、軍医をされていたという父親が建てた古い家に独りで暮らしています。場所は、東京都文京区西片です。
そんな街中にありながら、それを感じさせない昔ながらのしっかりとした造りの平屋です。柱は太く頑丈そうで、廊下も天井も十分のスペースを持たせた造られ方がされています。
天井には昔、電気が来る前に使われていたというガス灯の配管がそのままの形で残されていたりします。まさに明治時代に建てられた建物の味わいをそのまま残しているのです。
田口さんは、早稲田大学に在学当時戦争にとられ、戦地ラバウルへと向かいました。そこで終戦を迎えたあと、戦後は早稲田大学の図書館勤めを定年まで続けました。
つまりは、人生の大半を自宅と早稲田大学の往復の中で送ってきたことになります。
そんな田口さんは結婚するのが遅かったせいもあり、夫婦の間に子供はもうけませんでした。そのたった一人の家族である妻が病気に倒れ入院してからというもの、広い家をたった独りで守り続ける生活が始まりました。
しかし、そんな境遇にも拘わらず、田口さんは実にのんびり、といいますか、悠々自適に日々を送っているのです。そして、そんな田口さんの何でもない日常を見ていると、私の心は何故か安らぐのです。番組でナレーションを担当されているのは、女優の加藤治子さんです。
彼の妻は細々とした家事をするのが好きだったと見えて、台所の床下には、結婚以来趣味で造ったと思われる果実酒の瓶がいくつも保存されていたりします。
「好きでこんなことしていたんでしょうね。あ、コレ、19○○年製だ。ずいぶん昔のものですね」
と目を細めて話す田口さんはどこか誇らしげでもあります。
彼は結婚当初から家事は共働きの妻と分担していたそうで、その甲斐あってか、毎日の食事の準備も堂に入ったものです。あっという間に朝食、昼食、夕食の用意をして見せます。
彼のユニークなところは、財布の扱いにも表れます。
彼は、小銭とお札などを数種類の財布に分けて“管理”しているのです。多分、几帳面な性格なのでしょう。その財布をポケットに携え、献立の材料の買い出し、クリーニング店へ洗濯物を出しに、と出かけていきます。
そしてもう一つ欠かせないのは、定年まで勤めていた早稲田大学の図書館へ通うことです。
彼にはライフワークともいえる“研究”分野があるのです。それは週に1、2度は通うというほどの熱の入れようです。そしてその帰りには古本屋街を回り、馴染みの店主たちとしばしの時間を過ごします。
家に帰ったら帰ったで、仕事は尽きません。
家の庭に生えている竹を割って乾燥させて置いたものをボイラーにくべ、昔ながらの方法で風呂を沸かすのです。そして、風呂が沸くまでの間に夕食の準備をします。
彼はその年にして珍しいぐらい歯がしっかりとしています。失った歯は数本という見事さです。その丈夫な歯でおかずをよく噛んで食べます。
食事の際の話し相手はテレビ。時にはその相手であるテレビに“批評”を加えつつ箸を進めます。
彼は、夕食の前と後の2度風呂に入るのだそうです。その2度目の風呂に田口さんはのんびりと浸かります。
「湯船には百数えるぐらい浸かることにしているんですよ」
とここでも几帳面な性格を垣間見せます。
1日の終わりには目覚まし時計のネジ(ゼンマイ式の時計)を巻き、寝酒を小さなグラスに一杯飲み、床に入ります。
彼の両親の口癖は「バカでもいいから、とにかく生きていなさい。そうすれば“何か”になれるから」だったそうです。

田口さんは番組の最後にその両親がいった言葉の意味を訪ねられましたが、謙遜し、にこにこと笑って見せるだけで多くを語ろうとはしませんでした。ただ一言「私のような人生もありますよ、程度のことでやめておきましょう」とだけいって見せました。
とかく問題意識を持っている人に限って、仕事において、あるいは生き方において“自己実現”をはかろうとするあまり余計に自分の人生を見えにくくすることがあります。
そうしたとき、「とにかく生きていなさい。そうすれば何かになれるから」という田口さんの両親の“戒め”はなかなかの含蓄に富んだいい方であるように思えます。
犬や猫に限らす、人間以外の動物は全て生きることだけに一生懸命です。それと同じように、人間も生きているそのことだけに喜びを見い出すことができたなら、もう少し人生が楽しく思えるかもしれません。
ちょっとばかりエラそうな書き方になってしまったかもしれません。
ともあれ、田口さんのように、十分の教養を持ちながら、ヘンに小利口にならず、飄々ひょうひょうと生きていきたい、と思ったりしたのでした。