今週月曜日(14日)から、NHK BSプレミアムの「プレミアムシネマ」枠で、フランシス・フォード・コッポラ監督(1939~)の作品に『ゴッドファーザー』三部作を放送中です。
前回の本コーナーでは、一作目の『ゴッドファーザー』(1972)を取り上げました。昨日は『ゴッドファーザー PART II』(1974)が放送されました。
録画しながら見ましたので、気がついたことをここに残しておきます。
シチリアのコルレオーネ村から、のちのドン・コルレオーネになるvヴィト―少年が、周囲の援助を受けて単身、米国へ渡ります。
それ以前、少年の父と兄が、シチリアのマフィアのボスに殺されることが起きています。悲嘆に暮れた母が、ボスの屋敷へ行き、ヴィト―のことだけは助けてやって欲しいと懇願します。しかし、母の願いを聞き入れられず、ライフル銃で無慈悲に撃ち殺されます。
ヴィト―がニューヨークで成長し、裏稼業で頭角を現していく様子と、ヴィト―・コルレオーネの死後、ファミリーを率いた三男のマイケルの生きざまが交互に描かれます。
マフィアを家業とする家族を描くので、特別に思われるかもしれません。しかし、どんな家族にももめ事はつきもので、そのもめ事を描くという点では、不変のテーマといえます。
マイケルは、自分が父親のあとを継ぐことを決めたあと、マフィア同士の抗争を嫌い、一作目の終盤、敵対するマフィアのボス連中を抹殺しています。
マイケルの妻のケイとは大学時代に出会い結婚しています。ケイは夫とごく普通の生活を望んでいました。それが、マフィア一家のドンを夫がすることになり、激流に翻弄される生き方を余儀なくされます。
マイケルも自分の置かれた立場に悩みますが、ケイはそれ以上に悩み、苦しみ、苦悩します。
前作の終盤、敵対するマフィアのボスが皆殺しにされたあと、それをマイケルがさせたのか夫に訊きます。夫がすぐに答えずにいると、「イエスかノーで答えて」といい、ややしばらく置いて、マイケルは「ノー」といって、ケイを抱きしめます。
マイケルとケイの関係が、『ゴッドファーザー PART II』の後半、決定的にこじれ、激しいいい争いに発展します。その挙句、マイケルがそれまで一度も見せたことがない暴力をケイにし、張り手をくらわします。
修復不可能となり、ケイは子供を引き取ることも許されず、夫の下を去ります。
マフィアの世界という前提を抜きにすれば、世の中のいたるところにある事象といえましょう。
マイケルは、次兄のフレドと妹のコニーともうまくいっていません。本作の終盤、コニーが兄に会うことを許されたとき、「今まで兄をずっと憎んでいた」というようなことをいいます。
コニーは、前作で長兄のソニーの紹介で知り合ったカルロと結婚します。しかし、それがカルロの計画だった(?)のか、コニーと諍(いさか)いが絶えず、時には酷い暴力を振るい、顔をあざだらけにします。
長兄のソニーは、敵対するマフィアに反撃され、何丁もの機関銃で、蜂の巣にでもなったように撃ち殺されます。
マイケルは、コニーの夫のカルロが敵対するマフィアに通じていると考え、部下に殺させます。どんな理由があれ、夫を殺した兄のマイケルを許せるはずがありません。
長兄のソニー亡きあと、次兄のフレドは、自分を差し置いて弟のマイケルがファミリーのドンになったことを常々不満に思っています。
本作の終盤、フレドの象徴的な場面があります。フレドは心根が優しいところがあり、マイケルの息子のアンソニーに釣りを教えます。
息子たちがまだ子供だった頃、父と息子たち3人で釣りをしたことをアンソニーに話して聞かせます。四人の中で唯一魚を釣れたのは自分だけだった、とフレドが話します。
どうして釣れたか教えてあげよう。「どうか魚を釣らせてくださいとマリア様にお願いしたからだ」というのがその理由だといいます。
マフィア一家に生まれた男が話すエピソードとは思えないでしょう。ここにも、普遍的な伯父と甥の姿が描かれています。
感動的な場面があります。ずっと敵対し、次兄のフレドを寄せ付けなかったマイケルが、妹のコニーに諭され、ふらりとフレドに近づきます。
そして、手を差し出して握手をし、ふたりは抱き合うのです。
ヴィト―・コルレオーネの青年時代を演じるのはロバート・デ・ニーロ(1943~)です。本作が公開されたのは1974年です。デ・ニーロの顔が初めて画面に映った時、私が認識する彼とは違う顔に見えました。
私がイメージする若き日のデ・ニーロは、マーティン・スコセッシ監督(1942~)の出世作『タクシードライバー』(1976)の主人公、トラヴィスです。私はこの作品が大好きで、これまでどれぐらい見たかわかりません。
その作品で見慣れたデ・ニーロとは違う顔のように見えたのです。
作品の公開順でいえば、『タクシードライバー』は本作の二年後になります。本作でデ・ニーロの評価が一気に高まったでしょうが、二年後の『タクシードライバー』でそれが定まり、押しも押されもしないスター俳優になり、デ・ニーロがデ・ニーロの顔を獲得したといえましょう。
デ・ニーロが演じる若き日のヴィト―は、ニューヨークでマフィアとして成功したのち、故郷のシチリアのコルレオーネ村へ里帰りします。
目的は、父母と兄を撃ち殺した地元のマフィアのボスをしとめることです。その復讐を果たしますが、銃で一思いに殺すことはしません。
積年の恨み込め、手にした短刀で、ボスの腹を下から上へ、渾身の力を込めて、切り裂くのです。
映像表現に目を向けると、ヴィト―の若き日を描く場面は、マイケルの現在を描くのと変えています。
特に目立つのは、ハレーションを強調していることです。背後に明るい窓がある場面は、窓が白くハレーションを起こすように撮影しています。
復讐の相手を訪問した時、ヴィト―を案内する仲間の男は、コルレオーネ村で取れたオリーブオイルを米国で販売するのだといって、オイルがパッケージされた缶を持参します。
その缶も、シチリアの強い陽射しを受け、光を反射し、それが強いハレーションを起こします。
若き日のヴィト―と現在のマイケルを描く表現で共通するのは、強い明暗の対比で描くことです。
一カ月ほど前、本サイトで”Negative Fill”を解説したYouTube動画を紹介しました。
本動画の配信者は、プロの映像制作者で、米国の撮影技術をネットの動画共有サイトのYouTubeチャンネルで詳しく解説してくれています。
米国で映像を制作する人であれば知らない人がいない撮影時の技術が、日本では全く知らないか、知っていても、それを使っていないことが多くあるようです。
本動画で紹介されている”Negative Fill”も、知らないか、知っていても、それを使って撮影されないことがほとんどでしょう。
具体的には、明暗をコントロールする技術です。明るい部分を際立たせるには、影になった部分を極限まで暗くする必要があります。それを実現するため、暗部に余計な光が入らないよう、手前を黒い布などで覆って撮影するそうです。
この技術をほとんど持たない日本で製作された映像を米国人の専門家が見ると、日本の映像は、概して明る過ぎると感じている、と本動画の配信者が本動画の中で話されています。
この技術が、今から半世紀ほど前に製作された『ゴッドファーザー』三部作でも如何なく使われ、その効果が最大限に発揮されています。
たとえば、終盤、マイケルが部屋のソファにひとりで座っている場面があります。部屋は暗く、弱い光を受けた顔や体の一部だけが明るい映像になっています。
これほど暗い映像を、日本の映画やテレビドラマで作ることはあるでしょうか。
どこもかしこも、天井の蛍光灯で照らされた照明を採用したのでは、照明装置をセッティングする意味がありません。
暗いから照明で明るくするのではありません。対象物だけに照明を当て、暗くすべき部分は、黒い布などを使って、徹底的に暗くすることをしなければ、明暗の表現などできないのです。
マイケルが妹のコニーと和解するシーンも、照明を極限まで落として撮影しています。これが、天井の蛍光灯で照らされたような証明条件で撮影したら、ドラマチックにも何にもなりません。
映像表現をする限りは、映像美を極限まで追求すべきです。その点でも、本作及び本シリーズは、映像美を堪能することだけでも名作といえます。