ちょうど一週間前にもそのコーナーの記事に触発される形で書きましたが、今日も産経新聞の「双方向プラザ」に書かれていた文章から感じたことを書いておきます。
前回の時にも説明しましたが、そのコーナーは、一般読者から寄せられた疑問や質問に対し、産経新聞の担当者が回答をする、いわば読者側と新聞社の交流の場となっています。
今週分で私の関心を引いたのは以下の質問です。
(2002)8月11日付朝刊で、代理出産(代理母出産)を大きく取り上げた記事がありました。しかし、日本では代理出産は“違法”だと思いますし、“違法行為”を外国で行うことを助長するようなニュースに違和感を覚えます。(男性読者)
これは各マスメディアでも取り上げられ話題を呼んだニュースで、癌で子宮を摘出したタレントの向井亜紀さんが、アメリカで代理出産に臨んだ際の報道を指しているものと思われます。
私もこの件については大きな疑問を持っており、機会があったら書きたいと思っていました。
医学の専門知識は持ち合わせていませんので詳細は知りませんが、代理母出産というのは読んで字の如く、自分の代わりに別の女性に自分の子供を“代理”で産んでもらう行為です。
今回例として挙げている向井さんの場合は、病気で子宮を摘出してしまっているわけですから、ご自分のお腹の中で我が子は育ちません。それでもどうしても子供が欲しい場合は、自らの卵子(あるいは、別の女性の卵子)に夫(あるいは別の男性の)精子を受精させ、しかるのちにその受精卵を代理女性の子宮内に移し、出産までの一切を代わってしてもらうことになります。
彼女はその試みに期待をかけ、実際にその“治療”が行われているアメリカへと渡りました。が、彼女の場合は元々の受精卵の数が少ないこともあり、失敗という残念な結果に終わりました。それについての彼女の心境は、彼女自身がサイト内で綴っています。
今回の「代理出産報道」への疑問に対し回答を寄せているのは、産経新聞社会部の清水麻子記者です。清水記者は報道理由を以下のように回答しています(後半部分)。
過去10年間で40組の夫婦が渡米して51人の赤ちゃんが生まれている事実があります。代理出産を実施した(する)夫婦の姿が見えてこないなかで、いくら厚生労働省や法務省に選ばれた一部の有識者が議論を重ねても、本当の意味での国民のコンセンサスは得られないと思います。私は渡米して代理出産を行うことを推奨しているわけでは決してありません。生殖補助医療を、私たちはどこまで受け入れ、どこから禁止すべきなのか。向井さんの行動をきっかけに、広く代理出産の是非について読者一人ひとりに考えていただきたいと思っています。
この問題について、各マスメディアは報道をしたわけですが、私個人が見聞きした限りでは、彼女の行動を非難する論調を知りません。それどころか、「向井さんガンバレ!」のニュアンスさえ感じられました。上に抜粋した清水記者の考え方がマスメディア全般の考え方を代弁しているのであれば、そこに幾分かの批判も加えられる必要があったのではないでしょうか。
ここで私個人の代理出産に対する基本的な考え方を書いておきます。
私は不妊治療も含め、「生殖補助医療」というものには批判的です。端的にいって、一切人為的な“治療”は行われるべきではないと考えています。
ましてや、他人の子宮を借りるまでして自分の子供をもうける行為を行うというのは、人間の傲慢ささえ感じます。そこまでして自らの子孫を残さなければならないほど、自分を優秀な人物と考えているのでしょうか。
向井さんの例でいえば、ご自身の子宮を失った時点でどうして子供をもうけることを断念することができなかったのかと思います。常識的に考えれば、物理的に妊娠は無理なのですから。それなのに、他人の子宮を借りてまでもというのは、どう考えても行き過ぎていると私には思えます。
清水記者は「国民のコンセンサスは得られない」とお書きになっていますが、代理出産行為が国民のコンセンサスが得られるとするなら、生命倫理の垣根はその後限りなく低くなり、私利私欲が渦巻き、歯止めが利かなくなる恐れがあります。一旦そうなってしまったら引き返すことはできません。
私利私欲が許されるようになれば、いかなる“医療行為”も金さえあれば可能になってしまいます。金持ちほどより健康で長生きできるという不平等な社会です。
私は特別難しいことを考えているわけではありません。
一人の人間としてこの世に生を受けた以上、病気も困難も含め、自分に降りかかった宿命は甘んじて受け、当たり前に生を終えましょうということです。
向井さんの例に戻れば、子供ができない身体になったからには、子供を通しての幸福は諦め(子供を授かったからといって幸福になれるとは限りません。むしろ授かったことによって不幸になることさえあります。つまりはケース・バイ・ケース)、別の幸せを求めるべきです。
世の中には自分の子供どころか、伴侶も得られず、生を終える人も少なくないわけで、それでもみんな日々を何とか生きています。
私は独身であることもあり、自分の子供は望んでいません。気ままに一生を終えられたらと考えています。ただ、人生は成り行きですから、明日になったら考え方が180度変わっているかもしれませんが。
ともあれ、子供ができないのであれば子供を持つことを諦める。病気になり余命幾ばくもないのであれば生き続けることを諦める。仕方がありません。全て自分に与えられた宿命ですから。
泣くのは自由です。嘆くのも自由です。ただ、宿命は謙虚に受け入れましょうということです。
当たり前に生き、当たり前に逝く。それでいいではないですか。他に一体何を望みますか。