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私はそれと知らず、村上の作品に50%もポイントが付くことに気がつき、本短編集と最新の短編集『一人称単数』を手に入れました。『パン屋再襲撃』が発刊されたのが1986年ですから、最新作が出るまでに34年の歳月が流れていることになります。
私個人の視点から見れば、それらが発表されてから33、4年経って、ようやく読んだことになります。
それはともかく、本短編集には次の作品が収録されています。
パン屋再襲撃(『マリ・クレール』1985年8月号) |
象の消滅(『文學界』1985年8月号) |
ファミリー・アフェア(『LEE』1985年11月号、12月号) |
双子と沈んだ大陸(『別冊小説現代』1985年冬号) |
ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界(『月刊カドカワ』1986年1月号) |
ねじまき鳥と火曜日の女たち(『新潮』1986年1月号) |
小説は、小説家が書きたいことを書きます。ですから多くの場合、読者は、小説家が書きたいと思ったことをなぞります。しかし、書きたいことが読者から見えにくい時、読者は小説家が導いているはずの道を見失う感覚を味わいます。
松本清張の作品に接しているときにそんな味わいをした経験はないように思います。それが、村上の場合は、ときにそんな感覚に襲われることがあります。
村上の作品でも、それが強く感じるときと、それほどでもないことがあります。本短編集でいいますと、『象の消滅』は迷わずに道を辿れた印象です。
いわんとすることは奥が深いのでしょうが、話そのものは見えやすいです。一夜にして象と飼育係が消滅したとしか思えない出来事が起き、そのことを不思議に考える主人公の「僕」に読者は寄り添っていればいいだけだからです。
『ファミリー・アフェア』も話の筋に複雑なことはなく、戸惑うことはありません。この短編をさらっと読むことができた読者もいるでしょう。
私は読んでいる間、不快な気持ちが起きました。
村上の短編作品の登場人物は多くなく、本作の主な登場人物でも、電器メーカーの広告部に勤めている独身の「僕」(27)と、旅行会社に就職したばかりの「僕」の妹(23)、IBMかどこかの会社でコンピュータ・エンジニアをする妹の婚約者の渡辺昇(24)の3人が登場するだけです。
主人公の兄妹には名前がないのに、妹の婚約者にだけ「渡辺昇」としっかり名前を付けているのが何となく面白いです。村上が持つ遊び感覚の表れでしょうか。
本短編集に収められている短編は、発表された時期も媒体もバラバラです。であるのに、共通するネームが3つの作品に登場します。これは偶然なのか、それともあらかじめ用意されていたのでしょうか。
「渡辺昇」という名前が本作を含めて次の3つの作品に登場します。
- ファミリー・アフェア
- 双子と沈んだ大陸
- ねじまき鳥と火曜日の女たち
『双子と沈んだ大陸』では、主人公の「僕」と2人で経営する翻訳事務所のもう一人が渡辺昇です。ただ、彼は一度も登場しません。
『ねじまき鳥と火曜日の女たち』の主人公は相変わらずの「僕」で、妻と二人で暮らす家に飼われている猫の名が「ワタナベ・ノボル」です。
何でも、「僕」の義兄、妻の兄の名が「渡辺昇」で、義兄の歩き方や、眠そうな時の目つきとかの感じが何となく似ているように感じ、「冗談でつけた」と家に戻らないワタナベ・ノボルを捜している最中に出会った娘(16になったばかり)に猫の名を訊かれ、答えています。
6年前に亡くなったイラストレーターの安西水丸の本名が「渡辺昇」だそうです。
安西は村上の『村上春樹堂』など一連の本の表紙やイラストを担当するなどしていますが、村上がまだ作家になる前、村上がジャズ喫茶をしているころからの仲だそうですね。
この癖はおそらく初期からで、今もその癖が続いています。圏点がなくてもよさそうなところにも点が打たれているように思えます。本人にはどうしても必要なのかもしれませんが。
村上は用心深い性格(?)なのでしょうか。
「僕」と妹は東京都内のアパートで2人暮らしをして5年になります。「僕」が大学に入学した時、実家のある静岡からその部屋に引っ越し、就職後もそこに住んでいるのです。
そのアパートで、東京の大学に通うため妹が同居するようになったのです。兄と同居することを条件に、東京の大学への進学を両親から許されたからです
「僕」と妹は、互いのことは干渉しないで生活しています。2人の会話はそれなりに面白く感じることもありますが、途中から、「僕」のいっていることが、どこまで本気で、どこから冗談か、私にはわかりにくくなりました。
「僕」は率直な人間を振る舞い、妹にはいわないものの、内心では婚約者の渡辺昇を好ましくは思っていないのでした。
村上が書く作品の主人公の多くが、「やれやれ」と独り言をいうか、心の中で舌打ちをしますが、本作の「僕」も渡辺昇には「やれやれ」の気持ちでいるのです。
「僕」は女にだらしなく、暇つぶしに一夜限りの女と平気で寝たりします。
「僕」のアパートを訪ねてきた渡辺昇を妹と2人にさせるため、アパートを空けて街をぶらつき、女を引っかけて寝ます。その女にこれまで付き合った女の数を訊かれ、こんな風に答えます。
「このあいだ数えてみたんだ。思いだせるだけで二十六人。思いだせないのが十人くらいはいるかもしれない。日記をつけているわけじゃないからね」
村上春樹. パン屋再襲撃 (文春文庫) (Kindle の位置No.1134-1135). 文藝春秋. Kindle 版.
「僕」の話す言葉を読んだり、行動を追っていきますと、はじめの方に書いたように、「僕」の言動は、どこまで本気で、どこから冗談なのかわからなくなります。
「僕」が親の代理として、東京・目黒にある渡辺昇の立派な住宅を妹と初めて訪ねる場面があります。「僕」のように、ほとんど動じない人も世の中にはいるのかもしれませんが、大半の人は、それなりに緊張したりするでしょう。
それなのに、「僕」にはそんな気配がなく、渡辺昇の住宅や両親を冷静に品定めしたりします。また、昇が両親に気を遣って生活しているらしいこともすぐに感じ取ります。
村上について書かれたネットの事典ウィキペディアに、次のような記述があります。
(村上は)太宰治や三島由紀夫などが書く「いわゆる自然主義的な小説(自然主義文学)、あるいは私小説はほぼ駄目」、としており、その理由について「そういう小説には、どうしても身体が上手く入っていかないのです。サイズの合わない靴に足を突っ込んでいるような気持ちになってしまうのです。」と述べている。
村上は、それが作りものの小説であっても、人間の内面を晒して書くことに抵抗感を持つのかもしれません。
もう一つの短編集『一人称単数』の2作目『クリーム』がそろそろ読み終わります。この話に登場する「ぼく」が、18の年に体験した奇妙な出来事を語る内容です。
「ぼく」は、名のある私大なら合格の自信があったものの、親の希望で受験した国立大のそれに落ち、浪人中の身です。
その「ぼく」は頬が赤くなる傾向を持ちます。あるとき、「ぼく」はおめかしをして慣れない花束を持ち、バスに乗ります。他の乗客の視線を勝手に感じ、バスの中で赤面します。
赤面した自分を「ぼく」は恥ずかしく感じ、火照った頬を手で冷やしたりしますが、そうすればするほど、顔は赤みを増していきます。「ぼく」は、どうしてこんなことまでして、自分がバスに乗っていなければいけないのか、と自分を責めたりします。
もしかしたら、この「ぼく」が18の頃の村上の実像に近いのかもしれない、と私は勝手に想像したりしました。
ただ、本作の「僕」をそんなナイーブな男として描いたら作品が成り立たなくなると考え、強がる兄貴の姿として描いたことも考えられます。
読んでいるときは、いい加減に生きているように思える「僕」が好ましく感じられせんでした。しかし、読み終えてからもう一度考え、すぐ上で書いたような結論を持ちました。
多感の時期の5年間、アパートで同じ時間を過ごした妹から婚約者ができたことを聞かされた「僕」は、内心では大きなショックを受け、混乱もしたでしょう。婚約者の渡辺昇はきちんと仕事も持ち、育ちも悪くなく、客観的に見れば結婚相手としては文句のつけようがありません。
しかし、大いに混乱する兄貴の「僕」は、その内心を覆い隠すのに精いっぱいで、それがいわなくてもいいような冗談や強がりとなってしまったように思えます。
ラスト近くの「僕」と妹の会話です。
「ねえ、彼のことどう思う?」と妹は訊ねた。
「渡辺昇のこと?」
「そう」
「まあ悪い男じゃない。僕の好みじゃないし、服装の趣味もちょっと変ってるけど」と少し考えてから僕は正直に言った。
「でも一族に一人くらいはああいうのがいても悪くないだろう」
村上春樹. パン屋再襲撃 (文春文庫) (Kindle の位置No.1138-1141). 文藝春秋. Kindle 版.
考えてみれば、現実の生活も、人は本音を隠し、強がって生きています。であれば、村上は現実に即した人物描写をしているといえなくもありません。そのようにいわれることを村上が望んでいるかどうかはわかりませんけれど。
「結婚するのって、なんだか怖いですね」とおそらくは本音を漏らした渡辺昇に、「僕」はこんなアドバイスをします。
「良い面だけを見て、良いことだけを考えるようにすれば、何も怖くないよ。悪いことが起きたら、その時点でまた考えればいいさ」
村上春樹. パン屋再襲撃 (文春文庫) (Kindle の位置No.1055-1056). 文藝春秋. Kindle 版.
実はこれは、「僕」が自分自身にいい聞かせていることであり、何か新しいことを始めようとしながら躊躇っているいる人には、「大丈夫だからやってごらん」のメッセージになるのではなかろうか、と私は受け止めました。