今、村上春樹(1949~)のエッセイ集『職業としての小説家』(2015)を読んでいるのではなく、耳で聴いています。
私は本エッセイをAmazonの電子書籍版で読み、本コーナーで取り上げたことがあったと思います。
それを今、Amazonが提供するオーディオブックのAudibleで聴いているというわけです。本サービスは月額1500円です。それを、月額99円で利用できる権利を得て利用しているのです。
小説は文字で読むほうが頭に入るように感じ、村上のエッセイを愉しんでいます。
村上が書くエッセイは、小説と違い、彼の素直な気持ちがそのまま表現されているように感じ、読みやすく、聴きやすいです。
ただ、今回は、それを朗読する人の癖が加わっているからか、自慢話が多いように感じることが少なくありません。
なお、本作品を朗読しているのは小澤征悦(1974~)です。私は小沢が出演する映画やドラマを見たことがありません。それだから、声を聴いていても、彼の姿とは結び付きません。
村上は、小説という世界は、ほかの表現分野の人に比べ、寛容であるとしています。すでに小説家になっている人も、新しい人が小説を書くといえば、拒むようなことはせず、どうぞどうぞと喜んで招き入れると書きます。
文章が書ける人であれば、どんな人でも、一生の内にひとつぐらいは小説のようなものが書けるのではないかと述べています。
問題はそのあとです。長い年月に渡って小説をコンスタントに書ける人は限られ、それができた人だけが、小説家として生き残れるというわけです。
彼が処女作の『風の歌を聴け』(1979)を出版して話題を集めると、彼の高校時代の友人が、村上が当時経営していたジャズ喫茶に村上を訪ねてきたそうです。
その友人は村上に、彼が書いたような小説なら自分でも書けるといって帰ったそうです。それを聴いた村上は、正直、カチンときたそうです。そう書いたあとで、村上はその友人がその後、小説を書いたという話は聞かないと書き、村上の「書けるものなら書いて見ろ」という負けん気の強さのようなものを感じました。
私が気になったのは、村上が、どんな物事についてであっても、すぐに答えを出さないという態度です。それは小説家としてやっていくのには大切な考え方で、そのようにして、これまでやって来たと述べています。
たとえばアンケートで、AとBのどちらかを選べというものがあるとしたら、村上はAでもBでもないという選択肢があったらいいと書いています。今のところどちらでもないという回答項目です。
私はこれまで村上の作品を多く読んできましたが、村上が書く主人公が、村上のそんな考え方を反映しているように感じます。
たとえば、『ノルウェイの森』(1987年)の主人公は、学生寮の上級生である永沢の子分に甘んじています。自分よりも明らかに強いものには決して刃向かわず、永沢が自分の欲望からだけで女性を次々に使い捨てにすることをしていても意見ひとつできません。
それが村上自身の反映であるとすれば、実社会でも、自分より大きな力にははじめから反発する姿は見せないのだろうと考えます。
物事にすぐに答えを出さないことと、強いものには逆らわないことは共通しているように感じます。
自分が答えを出さなかったことに最大公約数的な答えが出た時点で、それに乗っかる生き方です。この方が間違いはなさそうです。しかし、それでは自分がなさすぎなのではありませんか?
結果的に間違いとなってしまっても、そのときどきで、未熟であっても、自分の考えを表明する方が、私は人間として魅力を感じます。
漫才の内海桂子(1922~2020)・好江の桂子さんの話を思い出します。その話は昔、本コーナーで書いた覚えがあります。
桂子さんが東京の下町に住んでいた頃、東京大空襲に遭いました。桂子さんは空襲で焼かれ、そのときは入谷にあったバスの車庫の裏辺りにいたそうです。
するとそこへ、ふんどし一丁で手に日本刀を持ったどこかのおじさんが通りかかり、「隅田川へは行くな! 死んじゃうぞ!」と叫んで回っていたそうです。
桂子さんはその知らないおじさんがいっていたことを直感的に信じ、生き延びることができました。当時を振り返り、桂子さんは次のように述べています。
アタシたちは、ヘンなおじさんのおかげで命拾いですよ
もしも同じ立場に村上が置かれた場合、どんな行動に出るでしょうか。どこかの知らないおじさんの忠告を素直に受け入れるべきか、それとも、その忠告を拒否するか。
しかし、そんな悠長なことをしていたら、火の手に囲まれて逃げ場をなくし、空からは米機から爆弾が落ちてきてしまうのではありませんか? 結果的に間違っていたとしても、すぐにどちらかの判断しなければ、助かる命も助かりません。
桂子さんが経験したような緊急な状況でなくても、すぐに答えを出さなければならないことはあります。
2020年に計画された新コロ騒動が始まりました。するとすぐに、存在しない新コロウイルスのために作られたことにされているワクチン(似非ワクチン)の接種が始まり、国や国に雇われた専門家、マスメディアが一斉に、国民にその似非ワクチンの接種をほぼ強要しました。
仕事をする人は、似非ワクチンを接種しなければ仕事を失いかねない人も少なくなかったでしょう。
似非ワクチンを摂取すべきか、拒否すべきか、判断が迫られました。このときも、村上が望むようなYESでもNOでもない選択肢は用意されていません。
村上に限らず、識者と呼ばれる人で、似非ワクチンに断固NOと表明した人は極めて少ないです。普段であれば、さまざまな事柄に進んで口を挟むような人まで、今に至るまで、物陰に自分の身を隠すようにしています。
私はそんな人は卑怯だと思います。そんな卑怯さを、AでもBでもないと書く村上の文章や、強いものに巻かれるような彼の作品の主人公から感じ、彼のエッセイを耳から聴いているうちに、イライラ感が募ってしまいました。
村上が、すぐに「わかった」といって答えを出してしまうのではなく、自分が本当にわかるまで、わからないでいることの大切さを説くことは理解しています。
しかし、それが通用するのは、時と場合によって異なります。すぐにどちらかを選ばなければならないときというのは必ずあります。
村上に、新コロ騒動と似非ワクチンについて率直な考えを訊いたら、どんな答えが返ってくるのでしょうか。きっと、直接、そのことに答えることを彼はしないでしょう。計算高いところが彼にはありますから。
ふんどし一丁になって、日本刀を手に、「隅田川へは行くな! 死んじゃうぞ!」と叫びまわる男のほうが私は好きです。また、そんな人がいることで、桂子さんのように、命が助かった人が現実に数多くいたでしょう。
