少雨とダムのブルース

日本列島は今、太平洋側を中心に少雨の状態にあります。

思い返すと、関東南部の当地では、今月の8日でしたか、関東南部の平野部としては珍しいほど雪が降り、積もった以外は、あまり雨が降っていないように思います。

ただ、個人的には、夜から朝にかけて雨が降り、地面に水溜まりができたのを見たりしていることもあり、それほどの少雨という印象は、正直なところ、持っていませんでした。

昨日の朝日新聞は、この少雨傾向を「30年に一度」の規模と伝えています。

そこで、GoogleのAI Geminiと、今回の「少雨」について、「対話」をしました。

その際、私は「しょうう」と入力して「少雨」と変換されたものと思い、それを送信すると、Geminiが回答する前に、次のようなことを付け加えました。

まず1点だけお伝えすると、ニュースなどで報じられているのは「小雨(こさめ:少し降る雨)」ではなく、「少雨(しょうう:雨が少ないこと)」になります。ずっと雨が降っているのではなく、むしろ記録的に雨が降らず乾燥している状態を指しています。

はい。わかっています。「しょうう」を「小雨」と変換されたのに気づかずに送信したこちらの手違いです。

Geminiは、気象庁が用いる「30年に一度」の意味を次のように解説してくれました。

気象庁が発表する「30年に1度」という言葉ですが、実は「ちょうど30年前にも全く同じことが起きた」という周期を表すものではありません。

これは気象庁が定めている「異常気象」の統計的な定義です。過去の観測データから計算して「その地域・その時期において、おおむね30年に1回以下の確率(約3%以下)でしか起こらないほど極端に珍しい現象」が起きた場合に、この表現が使われます。

「約3%以下」で起こる確率であれば、たしかに、稀なことではあります。

そこで、今から30年前はどうだったかを尋ね、次のような回答を得ました。

今から約30年前(1996年)に近い時期でいうと、日本全体を揺るがす歴史的な水不足が起きたのは、2年ほど遡った1994年(平成6年)でした。「平成の大渇水」とも呼ばれています。

  • 当時の状況: 春から梅雨にかけて雨が極端に少なく、さらに猛暑が重なったことで、西日本から関東にかけて記録的な少雨となりました。琵琶湖の水位も観測史上最低を記録しています。
  • 生活への影響: ダムが次々と枯渇し、長いところでは福岡市で295日間(約10ヶ月)にわたる給水制限や夜間断水が行われるなど、全国で約1600万人の生活や企業の工場稼働に深刻なダメージを与えました。
  • 当時の気象庁の発表: 気象庁はこの「30年に1回の確率」という基準を異常気象の判断として古くから用いています。そのため、この1994年の大渇水や猛暑の際にも、その基準に当てはまる歴史的な異常気象として記録・発表されています。

そんなことがあったかな、という感じです。私はそのときのことをあまり憶えていません。その渇水があった年の2年前、私の母が亡くなっています。

今からほぼ30年前にも少雨だったことがわかり、そのさらに30年前が気になります。偶然なのか何なのか、その30年前のこともGeminiが次のように解説してくれました。

1960年代に起きた大規模な少雨・渇水の詳細は以下の通りです。

1964年(昭和39年)の「東京砂漠(オリンピック渇水)」

1960年代前半は全国的に雨が少ない傾向が続いていましたが、特に被害が甚大だったのが1964年です。アジア初の東京オリンピック開催を目前に控えた首都圏を、空前の大渇水が襲いました。

  • 異常な少雨とダムの枯渇: 春から夏にかけての降水量が平年の半分程度しかなく、当時の東京の主要な水源であった多摩川水系の小河内ダム(奥多摩湖)は完全に干上がり、貯水率がわずか1.6%まで落ち込みました。湖底からは、かつてダム建設で沈んだ村の跡や旧道がくっきりと姿を現したほどです。
  • 生活への深刻なダメージ: 東京都内で極端な給水制限が実施され、「1日のうち数時間しか水道から水が出ない(ひどい時は夜間の数時間のみ)」という状態が続きました。自衛隊の給水部隊が出動し、人々がポリバケツやヤカンを持って行列を作る姿が連日報道され、この惨状はマスコミによって「東京砂漠」と名付けられました。
  • 現代インフラへの影響: この異常な少雨による危機を教訓として、国は「水資源開発公団(現・水資源機構)」を発足させました。多摩川だけに頼っていた水不足を解消するため、より水量の豊かな利根川水系から東京へ水を引くための大規模なインフラ整備(ダム群や武蔵水路の建設)が、この1960年代の渇水を機に急ピッチで進められました。

東京五輪が開かれた1964年は、首都圏が極端な渇水状態になり、「東京砂漠」といわれたほどだったのですか。前回の東京五輪を振り返る話の中で、渇水のことはあまり触れられていなかったように思います。

この回答の中で私の関心を引いたのは、当時の東京で主要な水源であった小河内(おごうち)ダムが完全に干上がったことです。そのことにより、ダムに沈んだかつての集落が姿を現したという記述です。

今回の渇水を伝える朝日の記事でも、大阪の水源となっている滝畑ダムの水位が下がり、ダムの底となったかつての集落が、同じように、上空から確認できる状態になったことを、写真付きで伝えています。

30年周期の少雨とダムの歴史

私は、ダムに沈んだ集落の話から、あることに連想を広げていました。東京・渋谷のラブホテル街誕生につながる話です。

渋谷の円山町(まるやまちょう)で、ラブホテル業を始めたのはどんな人たちでしょうか。

岐阜県に御母衣(みぼろ)ダムがあります。そのダムの底に沈んだ旧・荘川村(しょうかわむら)に住んでいた人たちが、円山町でラブホテル業を始め、成功させたのです。

そのあたりを、Geminiに解説してもらいます。

ご記憶の通りです!非常に鋭いですね。おっしゃる通り、ノンフィクション作家の佐野眞一氏による名著『東電OL殺人事件』の中で、その歴史について詳しく触れられています。

ただ、先ほど話題に出た東京の「小河内ダム」ではなく、岐阜県にあった別のダムの移住者たちによるエピソードになります。

渋谷・円山町と「ダムに沈んだ村」の因果

ご記憶にあるラブホテル街は、渋谷の道玄坂を登り切ったあたりにある「円山町(まるやまちょう)」というエリアです。そして、その街の形成に深く関わったのは、岐阜県の御母衣(みぼろ)ダムの建設によって水没した、旧・荘川村(しょうかわむら)の人々でした。

  • 「岐阜グループ」の誕生: 昭和30年代初頭、巨大ダムの建設によって村が水没する際、住民たちには多額の移住補償金が支払われました。その補償金を元手に東京へ移住してきた人々は、同郷の繋がりから「岐阜グループ」と呼ばれました。
  • 花街から「連れ込み旅館」街へ: 当時の渋谷・円山町は、もともと芸者さんがいる「花街」として栄えていましたが、時代とともに少しずつ衰退し始めていました。岐阜グループの人々は、そこに目をつけます。元々あった料亭や待合の建物を買い取り、当時の儲かるビジネスであった「連れ込み旅館(現在のラブホテルの前身)」を次々と開業していきました。
  • 街の変貌: 彼らのビジネスは大当たりし、次々と同郷の人間を呼び寄せてホテルを建設・拡大した結果、かつての風情ある花街は、現在のような都内有数の巨大なラブホテル街へと全く違う姿に生まれ変わりました。

「岐阜グループ」によるラブホテル戦略が成功した時代の背景についても、Geminiが解説してくれています。

なぜ「連れ込み旅館」は爆発的に普及したのか?

最大の理由は、戦後の深刻な住宅難とプライバシーの欠如です。 当時は焼け野原から復興する過渡期で、狭い長屋やアパートに大家族がひしめき合って暮らしているのが当たり前でした。新婚の夫婦や若い恋人たちが、親や兄弟の目を気にせずに二人きりになれる空間は、家の中には存在しなかったのです。

野外を避けるため、時間貸しで部屋を提供する安価な宿泊施設に対する爆発的な需要が生まれました。同調圧力の強い大家族や集団生活の息苦しさから離れ、純粋に「個の空間」を確保するための切実な避難所でもありました。

私の連想はさらに広がり、森永卓郎さんが生前語っていたことへとつながりました。森永さんは東京大学を卒業したあと、専売公社(現在のJT)に就職しています。

森永さんが勤めた職場について、Geminiは次のように書きます。

当時の専売公社は、国家予算の全てを握る大蔵省(現在の財務省)に対して「絶対服従」の隷属関係にありました。

森永さんが若かった時代、大蔵省の高級官僚と政治家は、赤坂の高級料亭で会合していました。

Geminiは、当時の森永さんがしなければならなかった仕事を次のように解説しています。

若手時代の森永さんの仕事の一つは、大蔵省の主査(予算の決定権を持つ官僚)の機嫌を取るために、この接待をセッティングし、ホスト役として尽くすことでした。大蔵省の廊下でひたすらお呼びがかかるのを待ち続ける「待機」もさせられていたそうです。

森永さん自身、晩年のコラム等で「今では絶対に許されないような、おぞましい接待に何度も立ち会った」と振り返っています。権力の頂点にいる大蔵官僚に対し、誰も逆らえず、官僚側も自分たちを「特別な特権階級」だと勘違いしてしまう異常な空気がそこにはありました。

今は、エプスタイン・ファイルが世界を騒がせています。この日本でも、古くから、権力を持つ者が、当たり前のように、性接待を受ける風習がありました。

水は高いところから低いところへと流れていきます。それまで続けてきた暮らしを、国がダム建設を決めた瞬間、諦めなければならない人たちがいます。

30年に一度といわれる渇水により、ダムが干上がって、かつて自分が暮らしていた集落がダムの底から浮かび上がるのを見たとき、そこのかつての住民の胸には、どんな想いがこみ上げるでありましょうか。

少雨傾向の今後の見通しについて、Geminiは次のような可能性を伝えてくれました。

少雨傾向は解消に向かう見込み: これまで異常な少雨が続いていましたが、2月下旬以降、太平洋側の降水量は「平年並み」に戻る予想が出されています。そのため、極端な雨不足の状況はこれから徐々に解消に向かうとみられています。

気象庁の見通しどおりになることを願うことにしましょう。

前回の東京五輪が開かれた1964年、東京は「東京砂漠」の状態でした。それを、音楽生成AIのSunoに『からっ風ブルース・トーキョー』という曲にしてもらいました。よかったら聴いてください。

からっ風ブルース・トーキョー(Made with Suno)

Geminiとのやり取りをNotebookLMに読み込ませ、動画を生成してもらいました。文章を読むのが面倒な人は、動画をご覧ください。

30年周期の渇水:水危機が暴く東京の秘史

本動画は「薄味」になっているので、物足りないですけれど。