「宵の五つ」。これは時刻のことですが、今の何時かわかりますか? 私はわかりませんでしたが、わかった今は「午後8時」と自信を持って答えられます。
阿刀田の『谷崎潤一郎を知っていますか 愛と美の巨人を読む』という本のサンプルを、Amazonの電子書籍版で読みました。サンプルですから、全部で13章あるうちの第1章「妖艶なデビュー」を読んだだけです。
ここで取り上げられている作品は、谷崎潤一郎(1886~1965)のデビュー作である『刺青』(1910)と『お艶殺し』(1915)です。
このあと電子版を購入し、この年末年始に読むかもしれません。
阿刀田が谷崎の作品世界と人間谷崎をわかりやすく解説してくれる本です。で、冒頭の「宵の五つ」の話は、谷崎が28歳のときに書いた『お艶殺し』の解説の中に出てきます。
本作の書き出しは次のとおりだそうです。
〝宵の五つの刻限に横町の魚屋の春五郎が酔っ払って跳び込んで来て、丼の底をちゃらちゃらさせながら、この間銀座の役人にもらったばかりだという、出来たてのほやほやの二朱銀を摑み出して、三月あまりも入れ質しておいた半纏やら羽織やら春着の衣裳を出して行った後では、いつも忙しい駿河屋の店も、天気の悪いせいか一人として暖簾をくぐる客は見えない。
阿刀田高 (2020-11-26). 谷崎潤一郎を知っていますか―愛と美の巨人を読む― (Kindle の位置No.163-168). 新潮社. Kindle 版.
文章の書き方を指南する本には、「文章は短く」と書かれていたりしますが、谷崎は書き出しからこの指南に反し、どこまで続くのかと思うほど文章を長々と書いています。
この、どこまでも終わらないように書く文章こそが谷崎の持ち味であり、味わいといえましょう。
これは江戸時代の話で、時刻の表し方は現代と違い、「宵の五つ」が今の午後8時であることはわかりました。それがわかっても、他の時刻がどのようになっているか知らない現代人は多いでしょう。私もそんな一人でした。
そんな人のために、阿刀田は次のように書いて、教えてくれています。
宵の五つ、これは夜の八時。遠い日の時間は暮れ六つ、明け六つ、ふたつの〝 六つ〟が六時で、ここだけが時計の数と一致している。古いほうはそこから五つ、四つ、と数を下げながら二時間ずつ進む。四つまで行くと次は九つで、八つ、七つ、そして〝六つ〟になる。覚えてしまえば、むつかしいことはなにもなく、これを使うと一気に小説は昔の舞台となる。
阿刀田高 (2020-11-26). 谷崎潤一郎を知っていますか―愛と美の巨人を読む― (Kindle の位置No.175-179). 新潮社. Kindle 版.
これを読んで、江戸時代の時刻の表し方が一気に理解できました。「六つ」が今の6時と同じで、「九つ」がアナログ時計の文字盤の「12」にあたることになります。
朝の6時は「明け六つ」で、夕の6時は「暮れ六つ」です。
あとは、2時間ごとに五つ、四つ、八つ、七つと時刻を刻んでいうことになります。面白いのは、数字が小さくなるほど遅い時刻であることで、今とは逆です。
これを覚えれば、古典落語を聴くときも、情景が頭に浮かぶようになるでしょう。
時刻の表し方がわかれば、『お艶殺し』の書き出しで描かれているのが、午後8時頃とわかります。
阿刀田はこの作品を高校生の頃に読んで大いに気に入り、阿刀田が谷崎作品を選べば、上位グループに連ねたい、と書いています。
午後8時頃に魚屋の春五郎が酔っ払って飛び込んできたのは、江戸の町で質屋をする駿河屋で、ここの若い一人娘がお艶(つや)です。
駿河屋で番頭をするのが新助という若い男で、お艶を恋しく思っています。しかし、江戸の時代、自分を使ってくれる主人夫妻の娘と恋仲になるなどもってのほかのことです。
以下↓が、誤字か誤植のカ所
ぽんと十両くらいの重みを投げわたすのだ。新吉としては、「あなたを連れて逃げ出すばかりか、お金まで盗んだとあっちゃあ……もったいなくて罰があたります」と、どこまでも律儀な商人なのだ。
阿刀田高 (2020-11-26). 谷崎潤一郎を知っていますか―愛と美の巨人を読む― (Kindle の位置No.218-220). 新潮社. Kindle 版.
その一方で、箱入り娘として育てられた娘にありがちのように、お艶は天真爛漫に育ち、春五郎が飛び込んできて、帰ったあと、「寒いから(戸を)締めてこっちへお入りよ」と自分の部屋に新助を誘います。
二人がもしも一線を越え、それが主人にわかりもすれば、14歳から20歳の今まで長年勤めた奉公が水の泡となり、自分の両親にも申し訳が立たなくなります。
そんな新助の葛藤に無頓着なお艶は、なおも次のようにせがんだりします。
「ああじれったい、じれったい、……今夜のような都合のいい晩はめったにありはしないのにさ。ねえ新どん、今夜こそお前覚悟をしているだろうね」
阿刀田高 (2020-11-26). 谷崎潤一郎を知っていますか―愛と美の巨人を読む― (Kindle の位置No.192-193). 新潮社. Kindle 版.
その晩、主人夫妻は親戚に不幸があって家を空けています。翌朝までは戻らないでしょう。加えて、二人いる女中もそれぞれの部屋に下がっています。
新助の下で働く丁稚も、用事をいいつけて家の外に出し、お艶にとっては都合のいい晩となっているというわけです。
立派な商人を目指して真面目一方に奉公してきた新助でしたが、お艶と出会ったことで、人生の舞台が様変わりしてしまうというお話です。
それが良い景色に変わるのか、それともそうではないのかは、実際に『お艶殺し』を読んで確認してください。
近松門左衛門(1653~1725)の『曽根崎心中』(1703)には、次のようなくだりが出てくるそうです。
あれ数ふれば暁の七つの時が六つ鳴りて
阿刀田高 (2020-11-26). 谷崎潤一郎を知っていますか―愛と美の巨人を読む― (Kindle の位置No.226-227). 新潮社. Kindle 版.
「暁の七つ」が今の何時かはもうわかりますね? そうです。明け方の午前4時のことです。
こんな風に、時刻の表現がわかるだけで、時代物が身近に感じます。
阿刀田は、お艶を典型的な「ファム・ファタール(運命の女)」と書いています。運命の女と結ばれた男は幸せそのものに思えます。しかし、結びつきが強すぎれば、男に破滅が待ち構えていることが少なくありません。
『お艶殺し』と『刺青』をなぜかひとまとめにした映画が過去に作られていますが、阿刀田はその出来に満足していません。
谷崎の文章に酔いながら、お艶と新助の恋の行方を辿ることでしか、この話を心底味わうことが出来ないということになりましょうか。