松本清張(1909~1992)の長編小説『溺れ谷』を読みました。本作は、文芸雑誌『小説新潮』に、1964年1月号から1965年2月号まで連載され、1966年5月に単行本化されています。
この時期はアジア初の東京五輪の開催もあり、日本は経済も活気づくなどしていたでしょう。しかしそれは、五輪のイメージに引きずられた印象のようなもので、実際のところは、いつの時代とも変わらず、社会はさまざまな闇と共にそこにあっただけかもしれません。
本作では殺傷事件は起きません。精糖業界を巡る人々の思惑が描かれます。
本作は、三流、四流の形ばかりの経済誌で「トリ屋」をする大屋圭造という三十代(だったかな?)の独身男の視点で描かれます。
トリ屋というのが、清張の造語なのか、それとも、本作が書かれた当時は一般に流通したいい方なのかはわかりません。
清張は、「トリ屋」を次のように解釈しています。
トリ屋とは「広告取り」の略称だろうが、広告主の意志でなく、さまざまな手を使って金を取る意味が強い。
松本清張. 溺れ谷(新潮文庫) . 新潮社. Kindle 版.
大屋が所属する雑誌社も、編集部はひと部屋あるだけで、銘々が、自分の儲けになりそうな企業や、案件探しに目を血走らせています。
一応は編集部に顔を出しても、ほかの人間と話をすることもなく、自分の都合で、勝手に外へ飛び出していったりするような職場です。
大屋が目下目をつけているのは、亜細亜精糖という近年急成長した新興企業です。そこの社長にうまく取り入り、業界を探ろうと企んでいるのです。
大屋と同様の仕事を、どこの雑誌社にも所属せず、原稿を書いて渡り歩いている藤岡真佐子という一匹狼的な女が登場します。歳は大屋と同年配で、目下は独身です。
大屋が出向いた先で真佐子と遭遇することが増えます。真佐子が手がける分野が違うはずなのに、どうして製糖業界を追いかけている自分が彼女と遭遇することが多いのか、大屋は不思議に思います。ともあれ、会うたびに、真佐子から新しい情報を得たり、曰くありげな人物を紹介されたりします。
本作より前に、清張は若い女性を探偵に仕立てた「お嬢さん探偵」ものをいくつか書いています。以前、本コーナーで取りあげた『蒼い描点』(1959)もそんな一作です。
本作では大屋がその役割ですが、探るのは業界や案件だけでなく、真佐子の正体でもあります。
真佐子は独りで生きている感じが強い女です。
本作を読み進めるうち、もしも本作をドラマや映画にするなら、誰を真佐子役に当てられるだろうと想像しました。
私が思いついたのは桃井かおり(1951~)です。といっても、今の桃井ではありません。脚本家の山田太一(1934~2023)が書いた『男たちの旅路』に出演していた頃の桃井です。
『男たちの旅路』がNHK総合で放送されたは1976年から1982年です。当時の桃井は25歳から31歳です。本作の真佐子役には少々若すぎますが、イメージ的には合致します。
それでは、本作の主人公、大屋は誰がいいだろうと考えました。これも、『男たち_』から採り、同ドラマで桃井とガードマン会社の同僚役を共演した水谷豊(1952~)に落ち着きました。今の水谷ではなく、『男たち_』の頃の水谷です。
歳も桃井と一歳違いで、『男たち_』でふたりはいい感じに演じていました。『男たち_』で水谷が見せたチャラチャラしたいい加減な感じが、本作の大屋役にはぴったりです。
もうひとり、かつて銀幕で活躍し、今はテレビドラマにちょい役で出演する竜田香具子という女優が登場します。香具子役は、『男たちの旅路』が放送された頃の吉行和子(1935~2025)が良さそうです(吉行は『男たち_』には出演していません)。
大屋は、会社を急成長させて「今太閤」などといわれている亜細亜精糖社長の古川に接近する目的で、古川が若い頃にファンだったという女優の香具子を女としてあてがおうといます。
その前に、大屋自身が香具子といい関係になったりするのですから、大屋のいい加減さがわかってもらえるでしょう。
こんなふうに、出てくる人間がいい加減なので、読んでいてもいい気分になりません。それが延々と続くのです。
本作を書いた清張は、精糖業界が輸入自由化を阻むため政界に近づくことを良くは思わず、それを問題視しようとしたのかもしれません。
しかし、人物描写も設定も中途半端な印象があります。
本作は月刊誌への連載で、ひと月ごとに迫る締め切りに合わせ、必要な枚数を書かなければなりません。しかも、ひと月ごとの連載ごとに話の山場を作らなければならないなど、書き下ろしにはない難しさがあります。
それを一年以上続け、全体を調和させることは、読者の想像が及ばない困難な創作になろうと想像します。
はじめから1965年2月号で連載を終了することが決まっていたのかはわかりません。最後のほうは急ぎ足になり、尻切れトンボに終わった感じが否めません。
見方によっては、余韻を残しつつ幕を閉じた、ということになりましょうか。
