清張に振り回されたい人にはお勧めの『蒼い描点』

松本清張19091992)の長編小説を読みました。『蒼い描点』1959)という作品です。清張作品の中ではあまり知られていない作品かもしれません。

本作は、『週刊明星』1958年7月27日号から1959年8月30日号まで連載され、1959年に単行本となっています。

前年から同年はじめにかけて連載した『点と線』(1958)が同年2月に単行本化され、ベストセラーとなっています。それにより、清張が自身の地位を確立したといえましょう。

そんな充実していたであろう年に連載が始まった作品であるため、期待して読みました。しかし、ただ長いだけで、読んでいても充実感がありませんでした。

本作をほかの人に勧める気にはなりません。

面白い題材を扱っています。しかし、上手く料理をしていたようには感じられません。登場人物の表現も、踏み込みが足りないように感じます。

主人公は、出版社で編集者をする椎原典子(しいはら・のりこ)という若い女です。典子にしても、お利口さん過ぎて、読んでいて、嫌になります。

典子の名をもじって、仕事仲間からは「リコちゃん」と呼ばれています。私は、彼女が登場してくると、「お利口ちゃん」の登場だと冷やかしながら読みました。

作家が頭の中で作りあげた人物を動かして話を作るので、登場人物の性格は、はじめから終わりまで一貫していなければまずいです。

そうだとしても、生身の人間は、いつも必ず正しい判断をしたり、正しい行動を採るわけではありません。

それが、小説の世界とはいえ、始終、きっちりと正しい行動を採る様を見せられると、嘘っぽく見えて仕方がなくなります。

本作を読む限り、典子は東京郊外に母とふたりで暮らす母子家庭のように思われます。父親の影はありません。

典子は母を「お母さま」と呼び、母も典子を常に大切に思っています。

ふたりが口喧嘩する場面でも提供してくれたらリアルですが、そんな場面を清張は用意してくれていません。

一方、悪人とされた登場人物は、いつでも人の道を間違え、他人に迷惑をかけて生きているように描かれます。

現実の世界では、同じひとりの人間の中に、良い部分と悪い部分が必ずあり、それが、時と場合によって、濃淡となって表れます。

清張によって悪人に選ばれた田倉義三という男が、箱根の山中で、死体となって発見されます。田倉は、他人の悪い部分を嗅ぎつけてはそれを暴くことを自分の職業にしています。

典子がたまたま箱根を訪れたときに田倉の死が起きたことで、典子が田倉の死の真相に興味を持ちます。

典子に協力するのが、同じ出版社で働く崎野竜夫(さきの・たつお)という若手編集者です。竜夫の描き方にしても、典子と同じで、平面的過ぎるのではありませんか?

ふたりは素人探偵のようにして、田倉の死の真相に迫っていきます。

話の筋としては単純です。それを複雑にするため、清張は読者を、入り組んだ道へ迷わせます。読者に誤解させ、本当は単純な道を、複雑に見せているのです。

結構、場当たり的な描き方をしています。

私がもっと別の描き方があったのではと思うのは、小説を代作する話が根底にあるからです。

新進の女流作家として、村谷阿沙子(むらたに・あさこ)という女が登場します。彼女は教授の娘という血統の良さもあり、マスメディアによって、もてはやされます。

その彼女が、デビュー三年目にしてスランプに陥っています。筆が進まず、作品の出来もよくありません。

彼女が執筆中は、誰もそばに寄せ付けません。彼女は、作家の座談会や、講演会の依頼を絶対に受けません。そんなことから、彼女には代作者がいるのではと陰で考える者がいました。

清張が、この村谷という世間で持てはやされた人気作家の内面を、彼女の視点で描いたら、面白い作品になったのではと私は考えました。

読み始めたときはそんなことを考えました。しかし、彼女の苦悩はまったく描かれません。他人に尊大な彼女の外面を描くだけです。

そして、話は、彼女の周りに起きた出来事に焦点が当てられ、その真相推理に入っていってしまいます。

典子と竜夫が、それぞれ、全国各地に足を運び、推理をしていきます。それらがすべてつながっているのは、あまりにも都合良すぎるように感じます。

そんなにうまい具合にはいかないものだろう、と。

いろいろなところに引っ張り回される読者は、疲労困憊です。

そういえば、映画監督の黒澤明19101998)に、清張の『砂の器』1961)の映画化を脚本家の橋本忍19182018)が持ちかけたものの、黒澤には、にべもなく断られたという逸話を何かで読んだのを思い出します。

『砂の器』でも、話は混線し、読者は右往左往させられます。話が直線的でないことに黒澤は我慢ならなかったのだろうと思います。

『砂の器』では、被害者が口にした「カメダ」が推理の手がかりにされます。この「カメダ」ひとつにしても、清張は読者を迷い道へ誘い込むのに使います。

清張が、代作という行為に眼を据えて描いたら、どんな作品に仕上がっただろうと本作を読みながら考えました。

本コーナーでは少し前に、清張の『天才画の女』1979)を取りあげました。

本作について書かれたネットの事典ウィキペディアに目を通すと、本作を評した評論家の郷原宏氏(1942~)の次のような見解が記されています。

(『天才画の女』が)贋作テーマの推理小説でありながら、構造的にはむしろ『蒼い描点』を始点とする文学作品の「盗作」物に近い作品と述べている[1]

この見解を目にしていたことも本作を読んだ理由でした。

それで、盗作についてもっと深掘りするような書き方をするのを期待して読みました。しかし、それが深く掘り下げられることがなかったのが、私には不満でした。

典子や竜夫は物を書く人間のそばで仕事をする人間です。ですから、代作や盗作には人一倍敏感のはずです。ところが、その行為自体に強い興味を持つことはなく、ひとりの男の死の真相にばかり関心が向かってしまいます。

その男にしても、清張は悪人と決めつけ、どうしようもない人間に描かれているだけです。田倉にしても、どうしようもない面ばかりではなく、良い面も必ずあったはずなのですが。

それまで描いたら、小説の中の登場人物としては、扱いにくくなってしまうということでしょう。

本作を原作とするテレビドラマが過去に四度作られたことを知りました。しかし、本作を下敷きにして、そのままドラマにしても、面白いものは作れないでしょう。

原作自体がそれほど面白くないからです。

何かひとつのテーマを見つけたら、それだけを純粋に、短編小説で表現してみるといいかもしれません。

清張はサービス精神が旺盛で、一年にわたる連載の仕事を頼まれれば、読者を飽きさせないよう、寄り道の連続をさせるような描き方にならざるを得なかったのだろうと理解することにします。

さて、これで清張の作品も読み終え、次は何を読むことにしましょうか。