小説と映画で楽しむ『砂の器』

今週は、松本清張『砂の器』に接しています。

手始めに、小説の『砂の器』を読みました。過去に読んだような記憶もありますが、細部は憶えていません。そこで、Amazonの電子書籍版で読みました。上・下に2巻で、長編です。

本作は、1960年5月17日から1961年4月20日にかけ、読売新聞の夕刊に連載されたものです。清張が51歳の年に連載を始めたことがわかります。清張はデビューが遅かったため、デビューの10年後ぐらいの作品になります。

これまでに映画やドラマになっていますので、あらすじは知っている人が多いでしょう。ということは、誰が犯人であるかも了解していると思いますので、犯人についても書くことになるかもしれません。

小説は2日ほどで読み終え、昨日は、丹波哲郎が今西刑事を演じた1974年制作の映画『砂の器』を、AmazonのPrime Videoで見ました。私はAmazonの有料会員なので、追加料金なしで対象のビデオを見られます。この作品は、2時間22分の作品でした。

小説と映画の『砂の器』を比較しながら、気がついたことを書いていきましょう。

小説を読んだあとに映画化された作品を見るつもりだったため、どのように映画化できるか考えながら読みました。登場人物が多く、戸籍が重要なポイントにもなり、映像化は面倒なように感じました。

これまでに清張の作品には多く接したつもりですが、それが殺人の起こる話でも、殺害の場面はまったくといっていいほど登場しません。

多くの場合は、事件が起こったあと、その謎解きをする人間の思考を追うようにして話が展開していきます。本作もそうです。

執拗に犯人を追うのは、警視庁で刑事をする今西という中年男で、丹波哲郎が演じます。彼は、少しでも手がかりをつかむと、それを手繰り寄せることに熱中します。

東北弁(東北方言)訛を持つ三木謙一という50過ぎの男が殺され、その前に現れたバーで、その男が「カメダ」と話していた証言を得ると、東北地方にいる亀田姓の男で行方不明になっている者はないか調べます。

東北の亀田という人間に不明の男がないことがわかると、今度は亀田のつく地名を疑い、羽後亀田(うごかめだ)駅を見つけ、捜査本部が置かれた蒲田(かまた)署の若い刑事の森田健作が演じる吉村を指名し、ふたりで現地へ向かうといったあんばいです。

これが短編作品であれば、もっと直線的に描くでしょうが、1年近くに渡る長編のため、結局は回り道になるような話にも読者は付き合わされることになります。

連載が始まった頃に、それ以前に映画化で付き合いがあった脚本家の橋本忍と、本作の映画化の話がついていたようで、新聞に毎日連載された切り抜きを橋本に送っていたようです。

それを読む橋本は、出来が悪いように感じ、途中でそれを読むのを止めてしまった、と本作について書かれたネットの事典「ウィキペディア」のエピソードにあります。

時代が変わっても、その時代を生きる若者は、上の世代に反抗的な態度を採りがちです。本作は1960年代初めが舞台ですが、30前の若者である音楽や評論、絵画、舞台分野で活躍目覚ましい彼らは芸術家グループを作り、それ以前の大家に反旗を翻しています。

グループのリーダー的な存在が、評論家の関川(せきがわ)という男ですが、映画には登場しません。関川には恋人がおり、その恋人の死を境に、それまで批判的に見ていたグループの仲間の音楽家、和賀英良(わが・えいりょう)との関係が変化します。

清張は、社会に粋がる若者の芸術家グループに枚数を費やしていますが、映画ではそれがすべてカットされており、小説とは趣が異なります。

本日の豆単語
本作で清張は「送受器」という単語を使っています。今の「受話器」にあたるものです。当時は「受話器」という単語がまだなく、「送受器」といっていたのでしょうか。もしかしたら、清張の表現が独特なのかもしれません。

また、音楽家の和賀にしても、既成の音楽界に背を向け、人の声や自然の音、あるいは電子的に作った音などを活かす実験的な音楽を作り出す男に清張は表現していますが、映画では、古典的なピアノを和賀に弾かせ、オーケストラとの協奏曲にしています。

私は実験的な音楽をする和賀について書かれたところを読み、アート・オブ・ノイズという音楽グループの音楽を重ね合わせたりしました。

NHK-FMが関東向けに平日の午後6時台に放送していたリクエスト番組に「サンセットパーク」があったことは、本コーナーでも何度か書いています。その番組宛に、アート・オブ・ノイズの曲をリクエストしたのを思い出します。

そのカードにも書きましたが、その曲を聴いていると、工事現場の杭打ち機が発するような音が聞こえます。グループ名そのままに、ノイズと思われるような音を活かした音楽作りをしています。

その曲からの連想で、それまでは騒音だった音が、あるとき、心を慰めてくれる音に変わった経験をリクエストカードに書いています。

近くの家で、天気が良い日、干した布団をしまう時、パンパンと叩く音です。心が変わる前は、耳障りの音でしかありませんでした。それが、自分の頭の中で、布団を叩く者が亡き母に入れ替わった途端、まるで亡き母が布団を叩いているように聞こえ、自分の子供時代を懐かしく思い出せる音に聞こえた、というような話です。

騒音のような音を、何かの感情を掻き立てる音に変えることができたなら、新たな表現になるということです。

そういえば、映画の中では、和賀が舞台でピアノを弾いているとき、生き別れになった父と音楽の中で逢っているのだ、と捉える場面があります。清張の作品にはなかった解釈です。

映画の脚本は橋本忍と山田洋次が受け持っていますが、ふたりか、あるいは監督の野村芳太郎の考えが取り入れられたのでしょう。

アガサ・クリスティ『名探偵ポワロ』では、灰色の脳細胞を持つ名探偵のポワロでさえも、これから起こる殺人事件を食い止めることができません。すべてが済んだあと、関係者を一カ所に集め、ポワロが事件の謎解きを披露する形式を採ります。

これは、清張の作品にも共通します。本作では、犯人と犯行動機を追う今西刑事が、事件が終わったあと、犯人の生い立ちを含め、警察関係者を前に長々と説明します。

そのラストに向かい、小説は急展開します。それが、実に荒唐無稽と思われる殺人をしているため、「そんなことはできないだろう」といささか鼻白む気分になります。

のちに映画化やドラマ化されていますが、いずれも清張の原作からその殺人方法は採用していません。それであれば、和賀の音楽スタイルも実験音楽に拘る必要がなくなり、既成音楽の延長の音楽家に落ち着けるよりほかなくなったのでしょう。

逆にいえば、荒唐無稽さが文字による小説の表現の幅といえるもので、無茶に思えることも、読者の頭の中にイメージさせることを前提に、縦横無尽に展開できるといえましょう。

本作を映像化するのであれば、その映像ももっと自由であるべきでしょう。

清張原作の映像化については、本コーナーで何度か取り上げ、その中で書きましたが、プロの役者を使って演技させなければ映像化できないという既成概念を壊す冒険をしてもいいと考えることがあります。

役者が台本にある台詞をいい、その顔をカメラが撮影するものが映画やドラマと考える限り、『砂の器』も描くことができないでしょう。

役者に台詞をいわせなくてもかまいません。だから、役者の顔を写さなくてもいいです。役者を使わず、手元だけを撮ったり、戸籍などの小道具で代用させることも可能かもしれません。

人間の形を使うのは最小限に抑え、イメージを見る人に与えることも有効です。それは、読書に少しだけ映像がついたもので、足りない部分は、見る人に想像させます。

映画の『砂の器』は、公開当時に大変な感動を与えたと伝えられていますが、それは、ハンセン病に侵された男とその幼子が、北陸地方を中心に放浪する場面を描いたからです。

清張が、その放浪を事細かく描くことはしていません。原作を読んで脚本にした橋本忍と山田洋次が、放浪の場面を想像し、目に見える形で描いてしまいました。

本作の映画版の脚本を書いた橋本のエピソードが、ウィキペディアにありますが、それを読むと、本作を共同制作した橋本の独立プロダクションが、父子の放浪場面を映像に収めるため、橋本は自分のプロダクションのスタッフ11人の少人数で、絵になりそうな地方で、10カ月ほどカメラを回したそうです。

はじめは、父子にも台詞をいわせて撮影したようですが、編集の段階で台詞をカットし、映像詩のようにしています。

見る人の感動を呼び起こした要因のひとつは、父と放浪する息子の表情でしょう。いつも睨むような眼をしています。演じたのは、春田和秀という子役です。当時、春田は、映画やテレビで活躍する売れっ子だったようです。

映画を見ていると、どうしても父子が離ればなれになるシーンに心を動かされます。巡査らが、父を荷車に寝かせ、馬でひいていく場面があります。

彼らが、交番の前を通る時、息子が荷車の上で横になっている父をじっと見つめています。少年のうしろに、巡査の妻がいますが、涙をこらえる表情がなかなかいいです。演じたのが、今井和子という女優だったのを初めて知りました。

和賀の恋人役で島田陽子が出ています。調べると、彼女は当時21歳ぐらいでしたが、裸の胸を見せています。

今西刑事が、出雲の奥へ行くシーンがありますが、地元の警察官がジープで今西を案内します。その若い警官役が加藤健一だったことを見終わってから知りました。

加藤といえば、その昔、NHK教育の番組で、つかこうへいの『戦争で死ねなかったお父さんのために』という劇を、三浦洋一風間杜夫平田満らと演じたのを見たことがあります。当時はビデオがなかったため、オーディオテープに音声だけを録音しました。

これを更新するために調べると、それが放送されたのは、1977年6月26日の「若い広場」だったことがわかりました。

本作は、1977年にフジテレビでドラマ化していますが、配役を見る限り、こちらの方が映画版よりも原作に忠実な描き方をしたのかもしれません。私はこのドラマ版は見たことがありませんが。

清張は、おそらくは父の故郷である備後落合(びんごおちあい)へ行く機会があり、そこの駅の待合室で耳にした夫婦の会話がまるで東北弁(ズーズー弁)のように聞こえ、それが数年後に連載することになる本作のカギにつながったようです。

本作には様々な事情を持つ人物が多数登場し、それを絡み合わせ、まとめ合わせるのは難儀に感じます。しかも、出生には秘密があり、それも証明していかなければなりません。

また、殺人につながる人間の動きも、偶然が重なり、殺人の意図についても、発表当時から疑問を持たれたりしたようです。

映画では、殺人意図を正当化し、強めるため、元巡査を犯人に「首に縄をつけてでも引っ張っていく」と強く迫らせています。巡査を演じるのは緒形拳ですが、原作を読む限り、その巡査は誰からも好かれる仏のような人間であるため、緒形が強く演じる巡査には、個人的には多少違和感を持ちました。

巡査をよく知るそろばん製作を家業にする老人を笠智衆が演じていますが、笠がその巡査の役にふさわしいように感じなくもありません。

映画は、原作より登場人物を絞って描いています。橋本忍も、映画の脚本を書くにあたり、父子を描けば、ほかはどうでもいいと割り切ったそうです。

映画は寄り道が許されず、2時間なりの作品に収める必要があります。その点、原稿にも限りがあるとはいえ、映画とは比べようがないほど自由度があり、清張が書く寄り道に付き合いながら、登場人物や話の展開を読んでいく楽しみのようなものがあります。

本作を映像化するのであれば、途中でも書きましたが、プロの役者の演技に頼らず、見る者に想像させるような描き方をする方法もあるでしょう。主人公を犯人に設定し、その心の動きを中心に描くのもおもしろそうです。

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