昨年後半から十日ほど前まで、アーサー・コナン・ドイル(1859~1930)の『シャーロック・ホームズシリーズ』に浸る時間を過ごしました。そしてその都度、読んだ作品について本コーナーで取り上げることをしました。
理由は、その期間、Amazonの電子書籍版のサービスであるKindle Unlimitedが無料で利用できる権利を得ていたからです。通常は月額980円かかるところ、それが無料だったのです。
このサービスを利用すると、該当する書籍であれば、追加料金なしに何冊でも好きなだけ読むことができます。それを、シャーロック・ホームズ物を読むことにあてたのです。
コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物を、何度目かですべて読んでしまったあと、松本清張(1909~1992)の長編小説を読んだことを本コーナーで書きました。『黒革の手帖』という作品です。
それを読み、本コーナーで取り上げたあと、次に何を読むか考えました。何も読まずにはいられないたちだからです。
ヒントは、『黒革の手帖』について書かれたネットの事典ウィキペディアにありました。
この作品は、『週刊新潮』で1978年11月16日号から1980年2月14日号にかけて連載され、のちに単行本化されています。『週刊新潮』は、清張の4作品を続けて連載し、それが『週刊新潮』によって「禁忌の連歌」とされたことを知りました。
そこで、この「シリーズ」のような作品を全部読んでみようと思いした。読む順番は、連載された順序に倣うことにしました。
4作品目にあたる『黒革の手帖』だけは先に読んでしまいましたが、残りの3作品を順に読もうというわけです。
連作の1作目は『渡された場面』(1976)という作品です。題名を知り、読んだ作品であることに気がつきました。読んだあとに、本コーナーで取り上げたことも思い出したので、それがいつだったか、投稿の履歴で確認しました。
その投稿は昨年5月1日ですので、一年前の4月に読んだことになります。
本作が『週刊新潮』に連載されたのは、1976年1月1日号から同年7月15日号です。連載が終わった年の11月に単行本になっています。
本作を一年ぶりに読みました。一年前に読んでいるので、読むうちに筋を思い出しました。それでも飽きさせないのは、清張の筆力のなせる業でしょう。
粗筋のようなものは、本作を本コーナーで取り上げたとおりです。途中までは単純な話です。しかし、本作の途中で、舞台からは離れた県の県警で捜査一課長をする香春(かわら)銀作という男が登場し始めます。
この香春とどのようにつながっていくのかと考えながら読み進めることになります。
清張の多くの作品は、殺人事件が起こり、その事件の犯人がわからない組み立てです。本作のひとつの事件は、早い段階で犯人が誰であるか読者にわかるように書かれています。
読者はそれを読みながら、犯人が、その犯行故に、常に身の危険を感じる心理が味わえるようになっています。
清張作品でもうひとつ特徴的なことは、取材が行き届いていることです。それぞれの作品を執筆するにあたっては、舞台に設定した土地を実際に訪れるかして、その場所を頭に入れるのでしょう。
本作のひとつの事件は、共に玄界灘に面した九州の佐賀と福岡が舞台です。本作を読むうちに、どんなところか興味を持ち、地図でその場所を確認したりしました。
実在しない地名をあてたりもしていますが、モデルにした場所はあるのでしょう。そんな場所を想像しながら読むのも、清張作品に接するときの楽しみ方のひとつです。
本作を一年ぶりに読み返して感じたのは、当時の清張が抱いていた日本の小説への不満が込められていることです。
ある県の県警で捜査一課長をする香春は、文学青年だった過去を持ちます。それだから、警察で働く今も、暇なときは、文芸雑誌を広げては、自分を満足させます。
こんな香春を通じで、近頃(本作が書かれた1970代後半)の文学界を次のように嘆かせたりします。
作者はほとんど若い人らしいが、自己の浅い経験をさも深刻そうに書くので、その小説はかえってそらぞらしく浮き上る。あるいはそれを思索的表現で書いているが、その心理描写には少しも普遍性がない。こんな退屈なものをよくも百五十枚とか二百枚とか書くものだと思った。
松本清張. 渡された場面(新潮文庫) (p.54). 新潮社. Kindle 版.
本作の連載が始まった当時、村上春樹(1949~)は作家デビューの直前です。しかし、香春を使って吐露された清張の嘆きが、村上が書く小説に通じているように思います。
清張は良くも悪くも職業作家です。そのことで、清張を評価しない人もいるでしょう。しかし、読む人を飽きさせない業を持つのがそれであるなら、清張ほどそれにふさわしい小説家はいないともいえましょう。
村上に清張と同じように、『週刊新潮』1976年1月1日号から4年間、1号も休まずに、四つの別々の作品を書いて欲しいと依頼しても、村上がそれに応えることはできなかったでしょう。
もっとも、それ以前に、村上は連載で自分の小説を書くことはしていません。一部の例外を除き、彼は小説を書き上げ、何度も推敲を重ねたのち、出版する書下ろしでしか作品の発表はしないのですから。
コナン・ドイルは、短編作品の場合は実質的に書きおろしになるでしょうが、それでも、雑誌に連載する形で作品を発表しました。
村上は、自分の執筆活動についてに書き、それらを集めたエッセイ集を出しています。その中で彼は、自分は小説を書くことが嫌になったことがないというような意味のことを書いています。
なぜそうなのかといえば、気分が乗ったときしか小説を書かないからです。
その一方で、清張やコナン・ドイルのように、連載の仕事を引き受け、締め切りに追われて小説を書く小説家は、気分が乗ったときだけ書くというわけにはいきません。
それだから、あとでj自分の作品を読み返したとき、気分が乗らないまま書いた部分が目につき、書いた当人が手直ししたい気分になることもあったりするでしょう。
村上は、自分が書いた作品をあとで読み返すことはしないとも書いています。村上は完璧主義的なところがあり、出版された自分の作品でありながら、書き直したい気持ちが起きてしまうであろうことが自分でわかっているからかもしれません。
清張はコナン・ドイルのように、作家が、自分の作品の足りない部分も含めて自分の表現だと考えることができれば、自分の至らない部分も世間にさらけ出せる分だけ、職業的な作家のほうが、作家としての器のようなものが大きいように思えます。
1976年から1980年2月14日号まで続いた『週刊新潮』の「禁忌の連歌」は、ほかに次の作品があります。
私は昔から清張作品を好んでよく読んでいます。ですので、ほとんどの作品を読んだつもりになっていました。
紙の本では読んだことがあるかもしれませんが、Amazonの電子書籍版で読んだか確認すると、上の2作品は読んでいないことがわかりました。
そこで、まずは『状況曲線』’上下巻二冊)を購入し、早速、読み始めることにします。そのあとは、『天才画の女』です。
