芥川龍之介(1892~1927)の短編作品に『疑惑』があります。読んだことはありますか? 私はそんな作品があることも知りませんでした。
私はAmazonの電子書籍版で読書をしています。村上春樹(1949~)の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)上下巻を読み終え、時間を持て余すようになりました。
そこで、まだ途中までしか読んでいない芥川の全集から、目についた作品を読むようなことをしています。そのひとつとして『疑惑』を読みました。
一人称で書かれた作品で、主人公の「私」は実践倫理学者です。その「私」が十年ほど前に出会った話を回想します。
物語の舞台は岐阜の大垣です。
十年ほど前の春、「私」は講演会を依頼されたその土地でしばらく過ごします。宿としてあてがわれたのは、その町の素封家が別荘として使っているようなところです。
静かで、夜になると、物音ひとつしないような環境です。
「私」の講演会も終わりに近づいたある日の夜、ひとりで部屋にいると、次の間との境にある襖が突如、音もせずに開きます。
襖の向こうには、ひとりの男が静かに座っていました。その姿がランプの光にぼんやり浮かぶのを見たとき、「私」は心底驚きます。男が幽霊にように見えたからです。
男は額が広く、頬がこけています。年齢は四十といったところです。羽織袴のいでたちです。
男は自分の名を中村玄道(なかむら・げんどう)と名乗りました。「私」の講演会を拝聴しにいっていると話します。
玄道は、迷惑でなかったら、自分の身の上に起こったことを聴いていただき、自分の身の振り方について何か考えを持たれたら、それをぜひお聴かせいただきたい、とお邪魔した理由を述べます。
現実的に考えれば、夜分、よその家に入って来て、しかも、物音も立てずにそこまで進み、声を掛けずにいきなり襖を開けるというのは、どう考えても非常識です。
ともあれ、「私」は迷惑だとは思いつつ、玄道に話を続けるよう促します。
ここから先は玄道の身の上話です。
玄道は師範学校を首席で卒業し、町にあった藩が建てた小学校の教師になります。教師になって2年ばかりのち、妻をめとります。
妻になった小夜(さよ)は、幼い頃に両親から離れ、それ以後は、子供がいなかった校長先生夫妻に育てられました。
小夜は素直な性格で、恥じらいを持つ女性です。口数が少なく、どこか影の薄いところがありました。
玄道が小夜と所帯を持ったのち、今から20年ほど前の明治24年10月28日午前7時頃、濃尾(のうび)の大地震が起きました。
揺れが大きくなり、柱が倒れ、瓦屋根が落ちる被害が起きます。
玄道は庇の下敷きになりますが、辛うじて、そこから這いだします。自分が助かったことを確認したのち、妻の小夜の身を案じると、小夜も庇の下敷きになり、動けなくなっていました。
驚いて駆け寄り、小夜を指すようとしますが、落ちた梁に圧迫され、引っ張り出すことができません。小夜の手を見ると、血だらけです。
それでも意識はあり、玄道に「苦しい」と助けを求めています。
そうするうち、どこからか真っ黒な煙が流れてきます。どこかで出火し、火の手がみるみる広がっているのです。
小夜を助け出すことができなかったら、小夜は生きたまま火に焼かれて死ぬしかなくなるのかと玄道は考えます。
そして、何を思ったか、玄道は、落ちていた屋根瓦を手に持ち、それで小夜の頭を何度も打ち付けたのでした。小夜は夫によって命を絶たれます。
小夜は地震と火災で絶命したと信じられ、妻を亡くした玄道は哀れに思われます。
すっかり元気をなくした玄道を心配した校長は、後妻の世話を始め、「私」が今滞在している別荘を持つ素峰家の娘との結婚話を勧めます。
玄道は誰にも、妻の小夜を、あの大地震の時、自分の手で殺したことは打ち明けていません。
玄道は玄道で、自分はもともと、小夜を殺したい気持ちを持っていたのではないかと自分に疑いをかけます。あの地震が起きなくても、いつかは小夜を殺していただろう、と。
妻の小夜には、玄道しか知らない「秘密」がありました。それが書かれているのが次の部分です。
妻は不幸にも肉体的に欠陥のある女でございました。(以下八十二行省略)………
本作の電子書籍版は、「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」が底本の親本となっており、それが出版されたのは1971年です。
そのときはすでに、肉体欠陥について書かれた記述が82行分削られていたのかもしれません。裏を返せば、削除されるまでは、芥川が書いた82行の記述があったことになります。
それがあるのとないのとでは印象が良くも悪くも変わるでしょう。機会があれば、それが削られる前の記述にも目を通してみたいと考えています。
本作をどのように感じるか、実際に読んでみられることをお勧めします。
