村上春樹(1949~)が初めて書き下ろしたという長編小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)を読み終えました。
本コーナーでは、村上の作品を読むたびに取り上げています。私はすべてAmazonの電子書籍版で読みました。デジタルで管理されているため、これまで、村上の作品を何冊読んだかが記録されています。
長編と短編集、エッセイ集、対談などを全部で40冊読みました。
今回取り上げる『世界の終わりと_』を購入した日付もしっかりと残っています。2022年8月2日に上下巻を購入しています。
それを読み終わった今は2024年9月末ですから、2年と2カ月後に読み終えたことになります。
もちろん、その期間をかけて少しずつ読んだわけではありません。上巻を読み始め、途中まで読んだところで別の本を読み始めたりして、読むのを中断する期間が長くあったということです。
中断しても続きが気にならなかったということで、個人的にはそれほどのめり込むような作品ではなかったことになります。
本書について、Amazonのコメントに目を通すと、村上作品の中でも上位の作品とする人が多く見受けられます。
本作は、新潮社から1985年6月15日に発行されています。
村上は、講談社の文芸雑誌『群像』で認められて作家デビューした関係で、本作以前の長編小説はすべて講談社から発行されました。それが本作は新潮社です。なぜ出版社が変わったのかについては、ネットの事典ウィキペディアにも書かれていませんね。村上と講談社の編集者との間に何か問題が起きたりした(?)のでしょうか。
ウィキペディアによると、本作の執筆にとりかかったのは1984年8月で、第1稿は村上の誕生日の1985年1月12日とあります。
村上は専業作家としてやっていくため、1981年に、それまで東京で経営していたジャズ喫茶を人に譲り、住まいを千葉の習志野に変えています。ということで、本作はその時期に執筆したことになりましょう。
そのあたりのことを知った上で次の個所を読むと、思わずクスリとさせられます。
「本当に渋谷から乗ったんですか?」と駅員が訊いた。
「だってこのフォームは渋谷始発でしょ? ごまかしようもないよ」と私は抗議した。
「あっちのプラットフォームからこちらに来ることだってできるんです。銀座線ってけっこう長いですからね。それにたとえば津田沼から東西線で日本橋まで出て、そこで乗りかえてここまで来ることだってできるんです」
「津田沼?」
「たとえばの話です」と駅員は言った。
「じゃあ津田沼からいくらなんですか? そのぶんを払いますよ。それでいいんでしょう?」
「津田沼から来たんですか?」
「いや」と私は言った。「津田沼なんて行ったこともない」
津田沼から西船橋まで行き、そこで東京メトロ東西線に乗り換え、日本橋まで行き、そこで、東京メトロ銀座線に乗り換えて、青山一丁目に来ることだってできると主人公の「私」が駅員から難癖をつけられている場面です。
上に書いた乗り換えは、村上が本作を執筆した当時の公共交通事情を前提とするものです。
現在は、津田沼まで東京メトロ東西線が乗り入れているため、平日朝夕のラッシュ時間であれば、西船橋で乗り換えることなく、日本橋まで直接行くこともできます。
本作を執筆したとき、村上が千葉の習志野に住んでいたなければ、いくら村上でも、こんな会話を思いつくのは難しかったでしょう。
村上は作家デビューしてから長いこと、一人称で作品を書いています。本作はデビューして5年目ですから、一人称です。通常の一人称作品と違うのは、主人公がふたりいることです。
つまり、ふたりの主人公が、それぞれの視点で作品世界を凝視しているのです。
ひとつの世界でそんなことをしたら、読者は混乱します。村上はふたつの世界を用意し、それぞれの世界にひとりの主人公を住まわせています。
本作のタイトルからわかるように、ひとつは「ハードボイルド・ワンダーランド」で、もうひとつが「世界の終わり」です。
どちらも主人公は男性で、年恰好はほぼ同じです。
「ハードボイルド_」の舞台は、現代の、といっても本作が書かれた1984年頃の東京です。主人公は自分を「私」と書きます。
「世界の終わり」は奇妙な世界で、街の周囲が、脱出不可能な高い壁に囲まれています。そこに入った人間は、二度とそこを出ることができないとされています。
そこに住む主人は自分を「僕」と書きます。この世界に住む人間には影がありません。その世界の門をくぐるとき、影を引きはがされるからです。
主人公の影が自分を一人称で書くことはありません。影は自分を「俺」といいます。
本作に登場する人物で私がおもしろいと思ったのは、「ハードボイルド_」の「太った娘」です。
村上は、あとになるまで、登場人物に名前をつけません。つけた方が書きやすいように感じますが、名前をつけることで、イメージが固定されることを嫌った(?)のでしょうか。
村上は、どんなに面倒でも、彼女を「太った娘」と書きます。
几帳面な書き方として私が気になったのは、それぞれの人物が話すカギカッコのあと、必ずといっていいほど、「と〇〇はいった」と書くことです。
それが「私」であれば、「と私はいった」というようにです。
村上はジャズ喫茶を経営するなど、音楽を身近なものとして生活してきたことが影響してか、「文章はリズムがいちばん大事」と述べています。
「といった」を繰り返すことで、彼なりにリズムを形作っているのでしょう。
「ハードボイルド_」の「私」は35歳ぐらいで、妻に突然去られた独り者です。執着心がないというのか、なぜ妻が自分の下から去っていったのかとは考えず、妻を取り戻そうという気持ちもありません。
村上は、この「私」をハードボイルド的に描こうとしたのでしょうか。
「私」と関り合うことになる「太った娘」は、とにかく、はち切れるほど太っています。それでいて、美形です。娘は上下ピンクのスーツを着ています。
年齢は「私」の半分ほどです。この娘は怖いもの知らずで、どんな困難に遭っても、冷静に、「私」を導きます。
「ハードボイルド_」の「私」と「世界の終わり」の「僕」がどのような関係にあるかは、読んでいくうちにわかるでしょう。
本作も例にもれず、村上の文章は饒舌です。細部の描写にこだわるため、噺がなかなか前に進みません。もっとも、それをシンプルにしてしまったら、上下二巻にするほどではなく、短編作品になってしまったかもしれません。
文学や音楽、料理に対する村上の蘊蓄(うんちく)が山盛りです。それをひけらかすために書いているのではと疑いたいほどです。
ただ、音楽にしても、村上の守備範囲はそれほど広くなく、どの作品を読んでも、同じような音楽やアーティストが登場します。
「ハードボイルド_」のメインテーマ曲は『ダニー・ボーイ』でしょう。
ウィキペディアによれば、本作の「世界の終わり」の部分は、文芸雑誌の『文學界』1980年9月号に載っただけで、その後、文庫本化もされず、全集にも収録されなかったことで、村上にとっては、なかったことにしたかった(?)『街と、その不確かな壁』(1980)が基となったそうです。
当時、村上は村上龍に、その作品のような作品をひとつかふたつ、長いので書いてくれといわれた話が残っています。
昨年4月、『街とその不確かな壁』(2023)が村上の長編小説の最新刊として発行されています。題名からもわかるように、一度は闇に葬ろうとしたのかもしれない作品を、長い年月を経て、よみがえらせた作品といえましょう。
本作のあとは、最新の長編作品である『街とその不確かな壁』を読むことにしましょうか。