人々が長年信じていることと、信じている実体が実は大きく乖離していることがあります。というか、乖離しているのが基本ともいえましょう。
それは宗教でもいえます。いえますというか、私もほかの人と同じように、宗教の実体を知らずにこれまで生きてきました。
私の家は仏教で、地元にある真言宗の寺の檀家ということになっています。正直なことを書けば、日頃は宗教を考えることはありません。
夏のお盆や法要のとき、家に来てもらうか、寺を訪れるかして、そこで、住職の読経を聴きます。
仏教のほかの宗派のことを私は知りません。地元にある寺の住職の読経を聞きます。真言宗の読経では、途中で、音節がつき、まるで唄っているように聴こえるところがあります。
両親と姉が亡くなったあとにそれを聴いたときは、心の奥の何かが刺激され、涙がこみ上げるような心持ちになりました。
仏教の勉強をしたことがないので、どんなことを僧侶が誦じているかはまったくわかりません。
普通の人がまったく知らないことをいいことに、実は、僧侶が誦じる読経の中には、人々が想像もしないようなことが展開されているのです。
こんなことを気づいたのは、松本清張(1909~1992)の短編集『三面記事の男と女』に収録されている、ある短編小説を読んだことによってです。
この短編小説は、清張の作品を読んでいる人でも、知らない人がいるかもしれません。それは、『密宗律仙教』(1970)という作品です。この短編小説をネットで検索しても、ネットの事典ウィキペディアには見当たりません。
題名から想像できるように、本作は宗教絡みの話です。清張が、何をきっかけに本作を手がけたのかはわかりません。多くの連載をかかえ、他作家の何倍も原稿を執筆しなければならなかった清張が、どうしてこんなことに興味を持ち、その知識を得ていったのかと思うばかりです。
真言宗の宗祖が空海(774~ 835)であることを知っている人がいたとしても、空海について詳しく語れる人は多くないでしょう。そして、空海が日本に持ち帰った宗教を真に理解する人は限られるのではないかと思います。
私の家の宗派が空海の真言宗であることを書きましたが、私は空海のことも、真言宗のこともまったくわかりません。
清張が書いた『密宗律仙教』の主人公は尾山定海(おやま・じょうかい)という僧です。定海は律仙教(りっせんきょう)という新宗教教団の教祖です。本作は、定海に辿りつくまでを、年代ごとにわけて書き、教祖になったあとの定海の「悪事」を書きます。
定海は本名を尾山武次郎といいます。生まれたのは、石川県動橋町(いぶりはしまち)近くの農家と設定されています。兄がひとり、妹がふたりの四兄妹の次男です。
武次郎は中学校を卒業すると家を飛び出します。何の当てもないまま家を出た彼は、自分で自分の仕事を見つけます。滋賀の大津に辿り着いた彼は、求人募集の貼り紙を見てある印刷店に飛び込みます。そこに住み込み、苦労をしながら、仕事を覚えていきます。
清張が若い頃に印刷所で働いたことがあるため、彼の作品の登場人物に、印刷所で働かせることがよくあります。
その後、いくつもの印刷店を渡り歩き、全国に住まいを移します。この間には、印刷以外のことも身に付けます。異性との交わり方です。
あるときは、大工をする家に下宿します。そこの下宿の女房が、夫の留守の間に武次郎に、性の手ほどきをします。その妻は器量は悪かったものの、性行為においてはテクニシャンで、ありとあらゆる交わり方を武次郎は会得していきます。
武次郎は、怪しい宗教団体の話を聞き、うまく行けば金儲けができるという話を耳にし、金儲けと自分の欲望を満たすため、宗教家になろうと考え始めます。
武次郎が修行のために向かったのが真言宗の総本山、高野山でした。そこで修行を続けたことで、定海という名を得ます。定海は、先輩の隆寛から、宗教が本来的に持つ「裏の顔」を教えてもらいます。
私が法要の時などに何気なく聴いていた読経は「理趣経」というのでしょう。これは、真言密教では最高の仏典なのだそうです。
何も知らずにそれに耳を傾けていると、何やら、崇高なもものように聴こえます。
しかし、それをひもとくと、全部がそうちうわけでもないでしょうが、性行為こそが仏の境地であることも唱えているそうです。
これは、真言宗だけがそうだというのではなく、空海が日本に持ち帰る前の、大元の宗教が、少なからず、そうした一面を持つというわけらしいです。
仏さまが座るのは蓮の花です。インドでは、それは女性器を象ったものと考えられています。それに仏が座るということは、男女の交合を現しているということになります。
「歓喜仏(かんぎぶつ)」(歓喜天)は男女混合そのもののこと(?)で、それが日本では、観音菩薩や愛染明王になる、と清張は書いています。
定海は、印刷工をしていたときに女性との性の交わりにも磨きをかけたので、新宗教の教祖になり、自分の欲望を満たすことを目指し、それを実現していきます。
真言宗の傍流に立川流というのがあるそうです。それを自分に都合良く解釈した定海は、「立川」の漢字を音読みし、自分が興した教団名を「律仙(りっせん)教」とします。
新宗教といえば、地下鉄サリン事件(1995)を起こしたオウム真理教が連想されます。あの団体も、原始仏教を自分たちに都合良く解釈した結果、あのような結果につながってしまったのかもしれません。
定海の信者は女性が多く、定海に騙されます。彼女らは、騙されつつも、夫に早く死んで欲しいときは、定海の力で、それを手に入れたりします。
宗教の力を借りて自分の欲望を満たすところは、定海と五十歩百歩といったところでしょう。
「卍」は世界の多くで宗教的象徴とされています。日本でも、卍が寺のマークのように使われています。
卍を眺めていると、男と女が交わっているように見えてはきませんか?
清張作品全般の通底に流れているのは建前を嫌う清張の考え方です。清張が宗教にもそれを感じ取り、本作を書かせたのかもしれません。
今後、抱擁、、、? いや、法要などで理趣経を聴いたとき、これまでとは違う聴こえ方がすることになるのでしょうか。
