天女にも悪女にも変える恋心 コナン・ドイル『ボール箱』

私は、Amazonの電子書籍版で本を読みます。今月末までは、思わぬ形でその権利を得たKindle Unlimitedを利用して、「シャーロック・ホームズシリーズ」の第2短編集『ホームズの回想 シャーロック・ホームズ』(『シャーロック・ホームズの思い出』1893〕)を読んでいます。

Amazon Kindle 第12世代

私はホームズものをすべて読んでいるので、何度目かの読書になります。

本短編集には、当初は二話目に収録されるはずだったものの、話の内容が残虐だったことで、一度は見送られた作品があります。

私が今読んでいる短編集は新訳版で、これには、当初の予定どおり、その作品が二話目として登場します。

その作品は「ボール箱」(1893)です。

本短編作品を取り上げようと思ったのは、26年間未解決のままだった事件が今になって動き出した名古屋で起きた女性殺害事件の容疑者の心理に相通じるものがあるのではないかと考えるからです。

ホームズが扱う事件は、ある独身女性のもとに、小さな小包であるものが送られてきたことで始まります。ホームズはスコットランドヤードストレード警部から依頼され、本事件の捜査に乗り出します。

わかってみれば、わかりやすい事件です。

独身女性はスーザン・クッシングといい、彼女にはセアラとメアリーというふたりの妹がいます。末の妹のメアリーは結婚し、セアラはまだ独身です。それぞれ、スーザンとは別のところに暮らしています。

スーザンに届いた小包に入っていたのが、切り取られた人間の耳です。ふたりの人間の耳が片方ずつ入れられていました。

それを送ってきたのが誰で、何のためにスーザンにそれを送りつけたのか。そして、これには殺人事件が絡んでいるのかをホームズが推理する筋立てになっています。

スーザンが結婚した相手はブラウナーという船乗りです。彼は酒癖が悪く、性格も粗暴です。だから、彼が酒を飲んで暴れ出すと手に負えません。しかし、彼がいう天使のようなメアリーという妻を得たことで、今は酒を断ち、メアリーとふたり、幸せに暮らしていました。

そこへ、メアリーにとっての姉 セアラがやってきて、メアリー夫妻の家に居座ってしまいます。

夫のブラウナーにとって、セアラは迷惑な存在以外ではなかったでしょう。しかも、始末が悪いことに、セアラは自分の妹の夫、つまり、彼女にとっては義理の弟に恋心を持ってしまうのです。

セアラはそれをブラウなーに匂わせます。しかし、ブラウナーにそのつもりは毛頭ありません。自分の想いを迷惑がられたセアラは、逆に、ブラウナーに憎しみを持つようになります。

名古屋の事件でも、被疑者の安富久美子が、被害者の夫 高羽悟さんに、高校時代、片思いした経験を持ったものの、すげなくされたことがわかっています。しかしそれは、事件を起こす20年以上前のことです。

そんな昔のことが、人を殺す動機になるのだろうか、と多くの人の頭を悩ましています。

20年以上というと長く感じるかもしれません。しかし、人の一生は、平均で80年ぐらいです。幼児の頃のことは憶えていないにしても、案外、昔のことをのちのちまで憶えていたりするものです。

私も、小学校へ上がる前のことも記憶として残っています。もちろん、すべてを記憶しているわけではありません。しかし、その頃のいくつかの出来事は鮮やかに蘇らせられます。

80年という年月の中で、過去20年というのは、それほど前のことといった感じでもないのかもしれません。

私が本サイトの前身となる自分のサイトを始めたのは1999年10月17日です。サイトを始めて今年で26年です。自分ではそれほど長く続けている感じはしません。始めた頃のことも憶えています。

そういえば、名古屋の事件が起きたのが1999年11月13日でした。本サイトを始めたちょうど1カ月ほどあとになります。私は名古屋の事件は、それが起きたことも記憶していませんでした。

アーサー・コナン・ドイル1859~ 1930)が描いた『ボール箱』では、ブラウナーに素っ気なくされたセアラが、さまざまな出来事の発生源となります。

自分の想いを受け入れてもらえなかったセアラは、ブラウナーを身勝手にも恨み、彼を破滅させてやりたいという思いに駆られます。

この感情が名古屋の事件の被疑者にそのまま当てはまるかどうかはわかりません。彼女の場合は、彼の妻を殺したあとも、彼への恋心を持ち続けた可能性もあります。

ただ、ずっと同じように愛していたわけではなく、ときには彼を憎むこともあり、そしてそのあとに、やっぱり彼のことが好きだという想いが、幾度も入れ替わったりしたかもしれません。

結果的には、事件の約5カ月前にあった高校時代の部活動のOB会で彼に再会したことが、被疑者の心に何らかの「炎」を彼女の心に灯してしまったのでは、と考えるだけです。

人を愛するのも人間。人を憎むのも人間。人を殺すのも人間だということです。

コナン・ドイルの『ボール箱』を次のように結ばれています。

「ワトスン、この事件にはどんな意味があるんだろうね」ホームズは厳しい口調で言い、調書を置いた。「この悲嘆と暴力と恐怖の連鎖はいったいどこへ向かうんだろう? 必ず行き着く先はあるはずだ。でないと世の中はすべて偶然によって支配されることになる。そんなことは考えたくもないよ。だが終着点はどこだ? これは永遠に続く問いであり、人間の理性は決して答えにたどり着けないんだろうね」

コナン・ドイル; 駒月 雅子. シャーロック・ホームズの回想 新訳版 シャーロック・ホームズ (角川文庫) (p.2). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

The Adventures of Sherlock Holmes Soundtrack – Sherlock Holmes Complete Theme

26年前に起きた名古屋の事件でも、被疑者の狙いが何であるのかは、解けないまま終わる可能性がなくもありません。それをもたらすのは、人間の内部に広がる暗い闇ではなかろうか_

なんて、わかったふうなことを書きましたが、実際のところ、私には、人間の何たるかなんてことは何もわかっていないことを白状します。