今月14日、NHK総合であるテレビドラマが放送になることを知りました。知ったのは放送当日です。朝日新聞のテレビ欄にある「試写室」がその番組を取りあげたことによってです。
朝日のそのコーナーは、毎日一番組にスポットライトを当てます。その日にそのライトが当たったのは、『天城越え』でした。
同名小説が松本清張(1909~ 1992)の短編小説にあります。以前にも一度、本コーナーで取りあげました。
それがドラマ化されて放送されるのを知り、録画しました。しかし、すぐにドラマを見ることはしませんでした。清張の原作をもう一度読んでからドラマを見ようと考えたからです。
原作となった清張の本作は、1959(昭和34)年11月、『サンデー毎日』特別号に掲載されました。そして、同年12月に単行本化された短編集『黒い画集2』に収録されています。
小説がドラマ化され、それを見るたびに思います。どうしてテレビドラマにする必要があるのか、と。私はまったく必要ないと考えます。
小説とテレビ放映のために作られる映像作品では、性格がまるで異なります。それぞれに、それぞれの得意分野があります。小説は小説で味わうように表現されています。
清張が書いた本作の主人公は、伊豆半島の下田(しもだ)に暮らす少年です。その少年が成長した30年後、30年前のあの日を思い返すように話が綴られます。
清張は、殺人事件を数多く扱いました。清張の作品を読むと、事件の現場が生々しく描かれていないことがわかります。本作でも殺人事件が起きますが、それを克明に描くことはしません。
清張が描きたかったのは、伊豆半島の天城山で、偶然出会った大塚ハナという名のひとりの遊女への儚(はかな)い想いです。その想いには、思春期特有の少年が持つ、性の芽生えのようなものが感じられます。
その少年の心の内が、NHKが今回作った映像作品で味わえるでしょうか。
私はこれまで、何度も、清張原作のテレビドラマには失望させられてきました。だから、ドラマを録画したものの、すぐに見る気にはなりませんでした。
見てみましたが、やはり今回も、失望させられました。
NHKのドラマは、大塚ハナについて描きすぎです。ハナが警察につかまり、刑事による高圧的な取り調べの場面が何度か登場します。そんな場面は清張の原作にはありません。
俳優を何人も使ってドラマにしようという考え方自体がはじめから間違っています。少年の心の内を映像にするのであれば、役者の演技は必要最小限に抑えるべきです。
少年やハナの顔を真正面から克明に撮る必要もありません。むしろ、撮らないほうが、見る人のイメージが膨らみます。
台詞も最小限まで絞りましょう。足りない部分は、少年から成長した今の男の声で語らせると良いです。
少年もハナも、ドラマを見る人にイメージを残さないように作ることをお勧めします。そのイメージは、原作を読んだ人一人ひとりで、すでに出来上がっているからです。
少年が貧しい鍛冶屋の次男坊の設定であるため、それを視聴者にわからせようと、継(つ)ぎ接(は)ぎだらけの衣装を着せています。それが、取って付けたようで、わざとらしく見えます。
以前、清張原作の『顔』(1956)をNHKがドラマ化しました。そのときも、登場人物が着る軍服がおろしたてのように真新しかったのが不自然に見えました。
番組のラストに、原作にはない、ハナの30年後の姿が登場します。そのハナの衣装にしても、頭にかぶる手ぬぐいにしても、演じる俳優に気遣ってか、綺麗すぎます。
海辺でゴミ拾いをする女性が、あんなに綺麗に化粧し、おろしたてのようなマフラーを巻いているでしょうか。手ぬぐいには汚れがひとつもありません。
ゴミを拾っていれば、顔や手ぬぐい、服にも泥がつくでしょう。
映像作品を制作する人に、そのあたりの想像力が欠けています。
ふたりが天城の山中で出会うのが土工(どこう)の男です。土工はもっと不可思議な存在に描くべきです。土工も、顔を画面に登場させないほうがいいです。
もっと大男にして、闇の中で影が動くような映像を見せるだけにし、正体のわからなさを強調すべきでした。
警察の取り調べの様子は、すべてカットしてもいいでしょう。それらは、語りで済ませます。
ただ、ただ、少年の心の動きを、客観的でなく、一人称的に映像にするといいです。
少年は、夕闇が迫る天城山中で、どうしようもない孤独感に襲われています。下田に戻ることも、この先に歩を進めることもできず、絶望の縁に、動けずに立っています。

そこへ、ふと、女神のようなハナが現れるのです。ハナからはいい匂いがします。彼女が発した声には、これまで、少年が聴いたことがないような、どこまでも甘い響きがあります。
ハナが顔を近づけ、少年の顔の近くで言葉を発するたび、彼女からは、声とともにいい匂いが漂ってくるかのようです。
下田方面へ早足で進むハナに出会ったことで、少年は自分も下田に戻る決心がつきます。そして、ハナのあとを、離れて歩き始めるのです。
少年は、初めて出会ったハナに心を奪われ、彼女の少しあとを離れて歩いているだけで、この上もなく幸せな気分になるのです。
もしかしたら、少年はハナのそばを歩くだけで、射精をしていたかもしれません。そんなことを、清張は書いてはいませんが。
そのような細やかな少年の感情が、NHKのドラマからは感じられません。台詞なんて入らないのです。この少年の感情を、映像と音だけで視聴者に感じさせてほしいのです。
テーマ曲のように、当時浅草で流行っていた『恋はやさし延べの花よ』を使い、ハナと少年に合唱までさせています。
原作には、こんな歌は登場しません。ふたりで歌うほど、少年とハナは打ち解けてはいません。少年がハナに恋心を寄せているだけです。
もしも映像で少年の心の内を表現できないのであれば、映像にする必要がありません。読者は、清張が書いた文章を読むことだけで、それが味わえているのですから。
このたびNHKが映像化した『天城越え』を満足して見た人もいたでしょう。といいますか、見た人の多くが満足したのだろうと思います。
そんな人には、一度、清張の原作に触れられることをお勧めします。そして、一読したあと、何を感じたか、見たばかりのNHKのドラマの感想に変化があったか、自分で自分に問うてみてみてください。
大きなお世話であることはわかっています。
録画した『天城越え』を見たあと、すぐに削除しました。
