つげ義春(1937~)という存命中の漫画家がいます。ご存知ですか?
私はその人の存在は知ってはいましたが、漫画に接する機会が極めて少ないこともあり、つげの漫画は読んだことがありません。
つげについて書かれたネットの事典ウィキペディアで確認すると、次のような記述があります。
『ガロ』を通じて全共闘世代の大学生を始めとする若い読者を獲得。1970年代前半には『ねじ式』『ゲンセンカン主人』などのシュールな作風の作品が高い評価を得て、熱狂的なファンを獲得した。
漫画家の蛭子能収(1947~)も、つげが書いた『ねじ式』を読んで衝撃を受け、まったく興味がなかった大阪万博(日本万国博覧会)へ行くからと嘘をついて、勤めていた看板店を辞め、東京へ出たことが知られています。
朝日新聞の土曜版には「歴史のダイヤグラム」というコーナーがあります。
このコーナーのことは本コーナーで取り上げたことがあるかもしれませんが、原武史氏(1962~)が毎回、鉄道にまつわるさまざまなエピソードを書いています。
本日のそのコーナーは、つげが、もしかしたら彼の人生で、最も精力的に作品を発表した1968年9月のある日に起きた出来事が書かれています。題して「つげ義春、九州への逃避行」です。
彼は表現者としての才能に恵まれ、作品が読者に強い影響を与え、熱狂的なファンに作品を求められながら、彼が50歳だった1987年を最後に、作品を発表していないそうです。
彼は今年88歳の米寿を迎えます。
彼の生きざまに影響を与えているのは精神的な苦しみでしょう。彼は幼少期から対人恐怖症を抱えていたそうです。それはおそらく、赤面恐怖症が原因していたのかもしれません。
実は私も赤面恐怖症には悩まされました。それを意識し始めたのは、私の場合は幼少期ではなく、高校に入学した頃からだったと記憶します。
そのために、生きていくのが不器用になりました。義兄にはよく、私が自分で「世間を狭くして生きている」というようなことをいわれます。
二十歳の頃に車の免許を取得しましたが、その後、免許の更新を放棄し、免許を失いました。私の場合は、車を自分で運転していても、自分の顔が赤くなることを気にしていました。
そして、赤くなったと自覚すると、ますます赤くなるように感じ、運転するのをやめて、どこかへ隠れたくなりました。
結局のところ、私の場合は、自意識過剰だったのだと思います。誰も私のことなどには関心がないのに、誰かから関心を持たれるこいとに恐れのようなものを持っていました。
つげの場合の赤面恐怖症はわかりませんが、「誰にも会わずにできる仕事である」ことが漫画家へなることを決心させたそうです。
そのように考える人がどれだけたくさんいても、実際になれる人はごくごく限られています。また、その人が描く漫画が評価され、作品が長く語り継がれる人は、極めて稀といえるでしょう。
つげの場合は、理由はどうあれ、なるべくして漫画になった人です。
しかし、彼は、おそらくは一生涯にわたって精神的なものを抱えて生きていくように運命づけられているようです。それが彼の作品世界を創り、世の中に受け入れられているという見方もできそうです。
原はつげに「蒸発願望」があったと書いています。
1968年9月のそのときも、実は、九州で暮らすつもりで彷徨っていました。
きっかけは、「産婦人科の看護婦」を名乗る女性からファンレターが届いたことでした。その女性ファンが北九州に住んでおり、その彼女と結婚しようと思いつつ、最後の決断ができずにいました。
もっとも、結婚というのは相手も同じ意思でなければ成り立ちません。ファンレターを書いたその女性が、つげと結婚することまで考えていたかどうかわかりません。
それを、つげの場合は、自分がその気になれば結婚できると考えてしまうところに、つげ独特の物の考え方があるように感じます。
ともあれ、東京を発ったあと、三重の松坂を経由し、大阪へまでは来ました。つげは大阪から西へは行ったことがありませんでした。
大阪駅にいたつげの耳に、列車の発車ベルが聴こえてきます。名古屋発熊本行きの特急「つばめ」の発車を注げる音です。
直前まで、九州へ行くのをやめ、千葉の知っている旅館に泊まろうかとも考えていました。
つげは特急の発車ベルにせかされたかのように、「小倉行きの切符を買い、発車間際の列車にとび乗」りました。
小倉駅で降りたつげが、駅の案内所で紹介された旅館で一泊した翌日の夕方、ファンレターを送って来た女性が勤めている病院へ電話します。
電話を受けた相手も驚いたでしょう。自分がファンのつげが、自分の住む街へ来て、直接電話をかけてきたのですから。
彼女は驚いて、タクシーに乗って、つげがいる旅館へでも行ったのでしょう。
結局、彼女との関係はそのときに終わりました。そのときのことを、つげは『貧乏旅行記』(1991)に次のように正直に書いています。
嬉しそうにニコニコしすぐに打ちとけたのだが、私はちょっとがっかりした。美人で人柄も良さそうで、とくに欠点もなさそうなのに、どことなくしっくりせぬものを感じ、感覚的に合わないように思えたのである。
彼女からはその後もたびたび手紙が届きましたが、つげは彼女に返事を一通も出しませんでした。
つげは、特急の中で、窓ガラスに止まって動かずにいる一匹の蠅に自分自身の境遇を重ね合わせています。蠅は、大阪から乗ったのかもしれない。だとすれば、自力では元の場所へ二度と戻れないだろう、と。つげは、自分がその蠅と同じだと考えたのでしょうか。
つげが30歳のときの出来事です。
『ねじ式』で一世を風靡したというのに、つげがそのような心境でいたということは、彼の内面の何かが、彼の生き方をそのように仕向けていたというこいとです。
つげにはエピソードが満載だと思いますが、ウィキペディアに、彼を象徴するようなエピソードが書かれています。
1980年代の話です。日本はバブル経済で世の中が沸き立っていました。
のちに故安倍晋三(1954~2022)の妻になる安倍昭恵氏(1962~)は、時流に適合し、ジュリアナ東京のお立ち台で、これ見よがしに馬鹿踊りをしていたことでしょう。
安倍家の御曹司晋三はそんな昭恵氏を見て、「かっこいい」と一目ぼれしたそうです。
同じ時代、ある広告代理店が某メーカーのテレビコマーシャルへの出演をつげに打診します。出演料は、郊外であれば家一軒分ぐらいの額が提示されますが、つげは考慮することなく、断っています。
彼が述べたという理由は次のとおりです。
とくに貧乏というわけではなく、それより、撮影のためのスタッフと何日も過ごすのが耐えられない。それに、自分がコマーシャルに出るという意味が分からないし、だいたい恥ずかしいよね。
