今は新聞を読む人が減っています。
私は普段電車に乗らないのでわかりませんが、今は、電車の中で新聞を広げている人はおそらく皆無でしょう。昔は、朝の通勤時間や、帰りの時間に、サラリーマンが電車の中で新聞を読む姿が当たり前にありました。
私はスマートフォンを使ったことがないので、電車に乗ったときや、ちょっとした空き時間にスマホを取り出して画面を見るようなことはありません。
たまに電車に乗ったときに、周りの人をそれとなく観察すると、たいていの人がスマホの画面を見ています。彼ら彼女らは、一体それで何を見ているのでしょう。
一度は、サラリーマン風の人が、スマホの画面でゲームを楽しんでいるところに出くわしました。
そういえば、少し前の本コーナーで、昔の米国映画『ローラ殺人事件』(1944)を取り上げました。
その中で、事件を捜査する警部補の男は、ポケットから何やら小さな小箱を取り出し、それをカチャカチャさせていました。
1944年の作品ですから、その当時にスマホのようなものはあるはずがありません。しかしそれは、中で小さな球が動くゲームの一種のようなものでした。
今から80年も前の世界でも、大人はゲームのようなものが嫌いではなかったということでしょう。
今は電子版の新聞もあります。それを契約している人であれば、他の人と同じようにスマホに目をやっていても、その人は新聞を読んでいることになります。
昔と違うのは、広げなくても、手元の小さな画面で新聞が読めることです。
新聞を読む人の比率は下がっています。その数が少ない新聞を読む人も、隅から隅まで読む人はいないでしょう。中にはいるかもしれません。仕事を引退し、一日を家で過ごし、新聞に載るあらゆる話題に接するように。
私の家では昔から新聞を数紙取っています。今は朝日、日経、産経、地方紙の四紙を取っています。この四紙を隅から隅まで読もうものなら、起きている間中の時間が取られかねません。
そうでなくても、私は、新聞を読むのが億劫です。だから、短い時間で四紙に目を通すようにしています。じっくり目を通せば、興味が持てそうな記事があるかもしれません。しかし、すでに書いたように、それをしたら、新聞を読むためだけに時間が多く取られてしまいます。
こんな風に、新聞を多くの人は「斜め読み」しているでしょう。
一方、本はといえば、私ははじめから終わりまで、一字一句追いかけるように接しています。しかし、そんな読み方を否定するコラムが本日の日経新聞にあります。
週末に合わせ、どの新聞にも、土曜日は書籍を紹介するコーナーがあります。
日経新聞のそのコーナーに「半歩遅れの読書術」があります。月替わりで、読み手の練達者が、本の接し方について、その人なりの考えを披露するコーナーです。
今月は臨床心理学者で臨床心理士、公認心理師でもある東畑開人氏(198~)が担当しています。本日の見出しは「大著こそ 斜め読みのススメ」です。
東畑氏は、私のように、はじめから終わりまで一字一句を追うように読むのは「本の奴隷だ」と書いています。
東畑氏自身、自分でも本を書くようになったことで、書き手の気持ちが理解できたと書いています。それがどの程度当てはまるかは、分野によって異なるでしょう。
東畑氏が書くような分野は、何かためになるような内容の分野になるでしょうか。
東畑氏は、次のように解釈しています。
すべての文章に魂が込められて、叡智がやどっている本はごくごく少数なのだから、読者としては斜め読みをしながら、文字の山のどこかに埋められた自分にとって伸びと知を採掘するのでちょうどよい。
たとえば、村上春樹(194~)は、自分が書いた文章を、自分の気の済むまでとことんまで推敲するそうです。それを村上は「とんかち作業」といい、嫌いではないと書くエッセイ集を読みました。
村上の場合は、魂が込められているかどうかは別にして、一字一句まで無駄にしないつもりで文章を書いているでしょう。村上の作品をどのように評価するかは読み手に任せるとして、斜め読みで村上の作品を、東畑氏の表現を借りれば「ちゃんと読んだぜ!」と思えるかどうかはわかりません。
東畑氏がいう斜め読みでも意味がくみ取れるのは、何かためになるようなことが書かれている本には有効ということでしょうか。
東畑氏は斜め読みの具体的なやり方についても書いてくれています。
たとえば章に分かれている時は、その章の最初と最後にざっと目を通すそうです。そして、章の中に小見出しがあれば、そのタイトルと最初の文章を読んだりするそうです。
そして、関心が持てそうな章や小見出しがあれば、文章の山に分け入るようにして、それらを読むそうです。
この読み方は、ストーリーのある小説にも通用するでしょうか。
ちょうど今、私は松本清張(1909~1992)の『連環』(1962)という作品を読んでいる途中です。
松本の本は大半読んだつもりでいました。今、私はAmazonの電子書籍版でUnlimitedのサービスを利用しています。通常は有料のサービスを3カ月間無料で使える権利を得、それを使っています。
本サービスを使うことで、その対象の作品であれば、追加料金なしで読むことができます。その対象の本に村上のその作品が含まれ、これまで読んだことがなかったので読み始めました。
『日本』という月刊誌に連載された作品であるため、第一章から第十一章に分かれています。また、それぞれの章には段落があり、段落ごとに数字がふられています。
東畑氏が書くように、それぞれの章のはじめと終わりの部分に目を通し、内容を理解し、興味の持てそうな部分だけを読むことで、松本清張の小説が楽しめるでしょうか。
本作は、犯人を推理するようには書かれていません。はじめから、ひとりの男が犯罪を企てています。それがうまくいくのか、読者が付き合う形に描かれています。
それであっても、小説ですから、常に途中経過です。先の展開がわからないからこそ楽しむことには変わりがありません。
それを、最初に先の展開を知った上で、興味の持てそうな部分だけをつまみ食いするように読んで、全体像がわかったからといって、読み手を満足させてくれるのか、そういう読み方をしたことがないので、私には何ともいえません。
物は試しで、今読んでいる松本の作品を例題にして、たとえば、段落のはじめと終わりを先に読み、筋がわかった上で読んだら、どんな感じになるか、試してみることにしましょうか。
東畑氏が勧める「斜め読み」が通用する分野と通用しない分野があるような気がしないでもありません。
東畑氏には、同じ読み方で、たとえば推理小説のようなものも実際に楽しんでいるのか、訊いてみたい気がしないでもありません。そもそも、東畑氏が推理小説に興味を持たれているのかどうかもわかりません。
私は今回、始めて東畑氏を知りました。本ページで紹介するため、YouTubeで東畑氏が出演している動画を捜しました。
それらを少し見た限りでは、仕事の関係もあってか、少々神経質なところがあるようにお見受けしました。また、理屈っぽい面もお持ちかもしれないと感じました。
