日本には四季があるといわれます。しかしそれが、最近は感じにくくなっているように思います。
こんなことを書くと、それは地球が温暖化したせいだ、といわれてしまいそうです。
最近になって地球温暖化を「騒いで」いますが、これは、今に始まったことではないように思います。相手が地球という宇宙に浮かぶ天体ですから、人類の思い通りにはなりません。
温暖化しているにしても、昨日今日始まったわけではありません。そして今後、寒冷化に向かうかもしれません。
ということは、私が子供の頃から今でいう地球温暖化が始まっていたのでしょうか。その頃は、日本には四季があると思い込んでいたので、春・夏・秋・冬と分かれているように感じただけで、その頃も、今と同じように、四季が明確に分かれて感じられたわけではなかったのかもしれません。
ともあれ、夏の猛暑が終わったあとは、秋らしい秋を感じる間もなく、気温が下がり、冬の足音を聞く季節になったような感じがします。
来月になれば、人々の意識は冬となるでしょう。
そんなせわしない秋には、食欲の秋とか読書の秋というように、さまざまな枕詞がつけられます。そのひとつに「芸術の秋」があります。あなたはこの秋を堪能されましたか?
多くの人にとっての「芸術の秋」というのは、展覧会や音楽の演奏会へ行き、誰かが描いた絵画や、誰かが奏でる音楽を鑑賞するものだったりするでしょう。
私は「芸術の秋」を意識するわけではなく、油絵具を使って絵を描きます。秋だから描くというわけではありませんが、夏の猛暑の頃は、体を少し動かすだけで汗をかくなどするため、パレットや筆を持つ手も汗にまみれ、落ち着いて絵を描く気が起きにくいです。
私は数十年油絵具と付き合ってきました。ここへ来て、ようやく、油絵具の扱い方に馴染んできたのを感じます。馴染んだことで、油絵具ほど魅力的な絵具が他にないことを気がつきました。
私が油絵具で描くときは、細筆は必要としません。豚毛の平筆で、細部にも絵具をつけてしまいます。
写真のように描きたいわけではありません。絵具の重なりで対象物が表せればいいので、細部まで描き込むことはしません。遠くから見て、そのように見えるよう、平筆で絵具を重ねていくだけです。
自分の目で見て描けるもの以外には興味がありません。私は人物の顔に一番興味を持ちます。これらの理由から、鏡に映した自分の顔が描く対象物になります。
自分以外の人間の顔も描いてみたいと思います。しかし、だからといって、自分とつながりのないモデルを雇って描いても意味がありません。
もしも、母が今も生きていたら、母に座ってもらい、時間をかけて描いて見たかったです。実際、母の生前に母を描いたことがあります。
その頃には母は視力を失っていたので、描いた絵を母に見てもらうことはできませんでした。
気の置けない誰かがいて、その人の顔を描けたらいいのですが、今の私にはそのような人がいません。
私は風景画や静物画には興味がありません。
空の雲には興味があります。それを油彩スケッチのように素早く描いてもおもしろいかもしれません。雲は短時間で姿を変えるので、コツを掴むまでは難しそうです。
「裸の大将」といわれた表現者の山下清(1922~1971)は、ちぎったり、指でよじったりした色紙を台紙にノリで貼り付けることで作品を表現しています。
山下清には、自分の目で見たものを写真を撮ったように記憶できる能力を持ちました。だから、放浪中にスケッチをするようなことはしていません。
自分が住むところへ戻ってから、頭の中に保存した写真を見るようにして、自分が各地で出会った情景を作品にしました。
ただ、山下のような才能をもってしても、私が望むような油彩表現は難しいでしょう。
自分の目で見ているものを、油絵具を使って描くことが、私にとっても絵画表現の最大の魅力だからです。私は、記憶だけで、自分が自分の目で見たように油絵具を扱うことはできません。
油絵具という絵具を作ってくれた人には感謝の気持ちしかありません。その絵具の戯れる時間が私を幸せな気持ちにしてくれます。
自分以外の人の顔を、時間に囚われず、描きたいなぁ。
