松本清張(1909~1992)の短編小説を何度目かで再読をしました。その作品名をネットで検索すると、ネットの事典ウィキペディアでは、『影の車』がその代わりに表示されます。
過去に、この作品名で映画とテレビドラマが作られましたが、同名の作品がないため、ややこしいです。
清張は長編小説とともに短編小説も数多く残しています。それらの短編小説を、出版社が独自に編んで出版するため、同じ短編小説が、別の短編集に収録されていることによく出会います。
『影の車』と認識される短編小説が収録された短編集を、私も二種類か、それ以上あれば、それ以上持っていると思います。
私が今回それを読んだのは、今月5日の本コーナーで取りあげた『共犯者』が収録された短編集です。
『共犯者』を表題とするその短編集は、1980年に新潮文庫が刊行したものです。
その短編集には、次の短編小説が収録されています。
私が今回、何度目かの再読をしたのは『潜在光景』です。
本作を含む短編集を、1981年8月、中央公論社(中央公論新社)が単行本にしています。そのときにつけられた短編集の表題が『影の車』です。この短編集に収録された『潜在光景』を映画化とテレビドラマ化したとき、なぜか短編集の表題が用いられ、本作品も『影の車』と認識する人が少なくない(?)のかもしれません。
本作を原作としてフジテレビが1988年にテレビドラマにしています。そのときだけは、本来の作品名である『潜在光景』としたことを知りました。
『婦人公論』が、1961年1月号から8月号まで、清張の短編小説を連作の形で載せたとき、「影の車シリーズ」みたいにしたことから、「影の車」がひとつの「商品名」のようなものになったのでしょう。
それはそれでわかります。ただ、そのシリーズの中の一作を映画化やテレビドラマ化するときに、短編小説につけられた題を使わず、シリーズ全体を表す『影の車』としてしまったことが、個人的にはもうひとつ納得できません。
本作を含む短編小説の連作された年は、1964年に開催された東京オリンピックに向け、東京の街が急ピッチで変貌し始める直前にあたります。
主人公は、浜島幸雄という四十代の会社員です。浜島は、東京郊外に妻とふたりで住んでいます。ふたりに子供はいません。作品は浜島の視点で描かれ、妻は一度も登場しません。
清張が描く男の主人公は身勝手なことが多く、本作の浜島も、妻には愛情を感じていません。都心にある会社から国電(今のJR)で30分、私鉄に乗り換えて20分、さらにそこからバスで30分かかるところに自宅があります。
7、8年前までは、あたりは麦畑が広がっていたのが、その後開発が進み、住宅街に変わりつつあります。
この浜島が会社からの帰りで乗ったバスの中で、ひとりの女性とばったり会うところから話が始まります。
女性が浜島に気がつき、声を掛けてきたのです。女性は小磯泰子といい、三十歳代です。浜島が子供の頃に住んでいた家の真向かいに、今は小磯と苗字が変わった泰子が住んでいたという縁がふたりにはありました。
子供の頃のふたりは、親しく口をきくことはなかったものの、浜島は泰子に淡い恋どころを持っていました。泰子のほうも、浜島を憎くは思っていなかったようです。
泰子が子供時代に越していったため、それ限りとなっていました。そのふたりが、四十代と三十代になった今、たまたま出会ってしまったのです。
話を訊けば、泰子が住む家が、浜島が利用するパス亭のひとつ手前のバス停で降り、しばらく歩いた先にあるのがわかります。そんなこともあり、ふたりの仲は急速に深まっていきます。
泰子は結婚して息子がひとり生まれたものの、四年前に夫に死なれ、女手ひとつでひとり息子を育てています。仕事は保険の集金人で、暮らしは豊かではありません。
清張が描く浜島という男は自分勝手といいますか、会社の帰りに、だから夜間に泰子の家をたびたび訪問するようになります。そんなことをして、妻に怪しまれたりしなかったのでしょうか。
浜島には、心が晴れ晴れしないことがありました。それは、泰子が愛情を注ぎ、子供ながらに頼りとするひとり息子の健一が、浜島に少しもなついてこないことです。
帰りが遅い泰子を浜島が待つ間、健一は浜島のそばには寄らず、離れたところでひとりの世界に入っています。健一は眼が大きく、その眼で、浜島をじっと見たりします。
この描写は、主人公である浜島が頭の中で考えることです。健一が浜島をどのように考えているかはわかりません。
しだいに、浜島は健一の存在に怯えるようになります。そして、それが徐々に強まっていくのです。第三者の眼で浜島を見たなら、彼がひとりで取り越し苦労をし、苦しんでいるだけと見えるかもしれません。
清張は、このような舞台設定をし、ひとりの人間が、自分の頭の中に作った「妄想」のようなものに苦しむ様子を描きたかったのでしょう。
もしも、視点を換えて浜島の妻の眼で書かれたら、浜島は、ひとりで勝手に浮気をし、浮気相手の子供によって転落するさまを、いい気味だといった感じになるだろうと思います。
現実の世界の私たちも、自分や自分が置かれた状況を、第三者の視点で、客観的に考えるのは難しいです。それができたら、自分を責めたり、自分以外の人を責めたりしている人が、それらの感情が、自分ひとりでこしらえたものであることに気がつけるでしょう。
私は成長の短編集と並行して、これも以前に読んだ、『ずぼら瞑想』を読んでいます。
今回取りあげた清張の『潜在光景』の主人公浜島に限らず、人は日々を暮らす中で、自分の頭の中に、自分が育てた「妄想」のようなものを持っています。
その「妄想」のようなものは、その人の脳を酷使し、疲れさせます。そんな脳を休めるのに有効なのが、ずぼらな瞑想であることを『ずぼら瞑想』は気がつかせてくれます。
瞑想などというと難しいことのように思うかもしれません。特別に瞑想のようなことをしなくても、そのときに自分がしていることに神経を集中できれば、それだけで自分の脳を休めることはできるのです。
そんな生き方を身につけることができれば、頭はいつもすっきりしています。
たとえば、夜に目が覚め、なかなか寝付けないことがあったとしましょう。そんなときも、すぐにまた眠らなければと自分で自分を追い込むことも、脳を疲れさせます。
そんなときは、なかなか寝付けない自分というものをそのまま受け入れ、自然の呼吸をするといいです。何も考えず、自分の呼吸に意識を向けていると、いつのまにか、また眠りに入っています。
『潜在光景』の浜島が「ずぼら瞑想」をできたら、健一に怯え、自分を破滅させることもなかったでしょう。
もっとも、それでは、小説にならないわけですけれど。
