慚愧の心

一週間前の本コーナーで、月曜日の産経新聞に設けられている人生相談について書きました。

今週もそのコーナーに注目して少し書いてみることにします。今回は回答者の回答を読み、誰に相談するかで、相談者の考え方に大きな差が出そうなことを考えました。

今回の相談者は50代の主婦です。この主婦は、「薄情な夫」について質問しています。

相談を寄せてきた女性は、3年前に一人息子を亡くされています。息子が19歳の時、不慮の事故で亡くなったそうです。相談者によると、息子はある日突然瀕死の状態になり、壁を叩いて助けを求めたそうです。

あとは想像するしかありません。それが何時頃のことかわかりません。そのとき息子は体調が急変し、死の恐怖を感じ、必死になって壁を叩いて助けを求めたのかもしれません。

相談だけではわからないことがあります。母親は、息子の隣の部屋にいた夫は、その音に気がついたはずだと書いています。それが夜であれば、息子の隣の部屋はおそらく夫婦の寝室で、夫が気がついたはずなのなら、妻である質問者も同時に気がついたはずでしょう。

それとも、それが起きたのが夜ではなく、そのときたまたま夫だけが家におり、妻である質問者は外出して家にいなかったのでしょうか?

ともあれ、質問者は、夫がそのときに物音に気がついて「(息子の部屋に)入ってくれれば息子は助かったのに」と夫を恨んでいます。

また、息子を亡くしたあと、息子の母親である質問者は、死んでしまいたいと毎日泣いているそうです。

夫のほうはといえば、時間が経つにつれて元気を取り戻し、食欲が旺盛になったそうです。妻の前で泣くことはなく、供養もおざなりだと不満を訴えています。

妻は夫を「薄情」と考え、息子の死と向き合って供養するような人間に生まれ変わらせるにはどうすればいいかといつことと、質問者自身が前向きに生きていくための助言を求めています。

ここまでの質問を読み、どのように感じたでしょう。女性の多くは、質問者と同じで、なんて薄情な夫だと感じ、質問者に同情するでしょうか。

今回の回答者は女性です。その女性が、質問者に同情するばかりの人であったら、質問者の気に入るように、一緒に、質問者の夫を詰(なじ)るような回答をしたかもしれません。

ところが今回の回答者はそうではありませんでした。

回答者をする女性は、僧侶で、ラジオ番組のパーソナリティもされている人です。

僧侶らしく、親鸞聖人の教えを回答に持ってきました。

親鸞は、「賢人、善人を装って生きていないか?」と私たちに問うているそうです。

世間一般に信じられている「善人」は、悲しんでいる人がいたら自分のことのように悲しみ、喜ぶ人には、自分も同じように喜ぶことができる人、といったところでしょう。

しかし、人間というのは、そのような「完璧な善人」にはなれない、と僧侶でもある回答者は述べています。冷静な考え方です。

回答者の夫も、自分の息子が突然亡くなったのですから、悲しくないはずがありません。息子を思い出すと、気が狂いそうになるので、なんとか平常心を保とうとしているのかもしれない、と回答者は分析します。

人には、悲しむ姿を他人に見せられる人と見せられない人がいることを理解して欲しいとも述べます。

質問者の夫がもしも、毎日泣いてばかりいる妻と一緒に泣いたら、この先どうなるのかと考えたかもしれません。夫も、妻の知らないところで泣いているかもしれません。妻の前でだけ、気丈に振る舞っている可能性もあります。

ひとつ上に書いたことは私の想像です。

回答者は、「人を人として敬うことができて初めて、慚愧の心が芽生える」と説いています。

息子の死は、それまでは十分に機能していなかったかもしれない夫婦の向き合い方を考え直す契機になる、というようなことが書かれています。

長い人生においては、つらいことや悲しいことと無縁ではいられません。それに直面したとき、自分をどのように律するべきか、学ぶことの大切さを教わりました。

回答者は質問者に、「私の悲しみを態度で察することのできない夫を理解しながら、慈悲の目で接してみてください」と助言しています。

世の中では、日々、夫婦の諍いが起き、事件にまで発展してしまうケースもあります。相手の心を察することができれば、ほとんどの場合、諍いを防ぐことができるでしょう。